たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 
「絵本フォーラム」第65号・2009.07.10
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感じるこころが生み出す子どもの長い時間

『ぜったいぜったいねるもんか! 

 齢を重ねると感じる心が淡くなる。残念なことであるがだんだんと淡くなる。だから、「光陰矢の如く」時が過ぎていく。一時間は六〇分、一週間は七日、一年は三六五日だ。物理的な時間は誰でも同じはずだが、ぼくの子どものころと還暦過ぎの現在の時間は不思議なことにずいぶん違う。熱中時代の学童期に比べ現在は明らかに時の過ぎるのが早い。大人と子どもの時間は違うと考えたらすっきりするのではないかと思う。子どもの時間は大人の時間より断然長いのだ、と…。

 物理的時間はともかく、なぜ、そうなるのか。原因はどうやら感じる心の違いにある。

 純粋な興味を何事にも持ち一心に向かう子どもの一日一日は充足感に満ちている。時間が足りないと思うほどに満ちている。そんな子どもの時間は一面ずいぶん早く過ぎているように思える。ところが、十年、二十年後に振り返るとあんなことこんなことたくさんの体験実話が蘇り、物理的時間をはるかに超える豊かで長い時間であったことを心理的に意識する。純粋素朴に四肢を伸ばし、耳目をフル回転させて好奇心・探究心・冒険心に想像力・創造力のありたけをぶつけて生きる子ども時代の時間の密度はすごいのだと思う。

 そこに通底するのは「感じるこころ」ではないだろうか。感じるこころが時間を空間に繋ぎ大きく長く展開する。子どもたちに横溢する「感じるこころ」は、だから、大人たちより幾倍もの長さの時間を生み出すのだろう。反面、内実の淡い俗事にふりまわされる大人たちの時間はまたたくまに過ぎゆくとなるのである。「いやぁ、あれあれという間に一年ですよ」と述懐する一歳を重ねる大人たちは俗事に時間を奪われる分、たいしたことをしていないということかもしれない。

 オリバー・ドニントン・リミントン・スニープと舌を噛んでしまいそうな長い名前の坊やも時間のありたけを豊かに使う ( 『ぜったいぜったいねるもんか 』 ) 。

 おやすみの時を迎えても目はパッチリ。お父さんとお母さんがやってきて、ベッドの中のオリバーにおやすみなさいのおふとんトントンをしてくれたのだが…。まだまだ寝てなんかいられるかとぬいぐるみの動物たちとオリバーは空想のつばさをはばたかせるのだ。部屋の隅にはぬいぐるみの怪獣や兵隊にどろぼうまで待機中。

 夢かうつつか、坊やの想いはしだいに映りはじめるではないか。窓外に目をやると、もう戸外に飛び出した怪獣やどろぼうたちが屋根によじのぼって月見を楽しみ、兵隊さんラッパを奏でている。月光をさえぎる暗い森の中でも怪獣たちがのびのび遊ぶ。こんな光景を目にしたらたまらない。寝てしまうのはもったいないし、つまらない。だから、「ねむくないったら、ねむくない」とオリバーはがんばって、「ぜったいぜったいねるもんか」となる。ベッドを抜け出したオリバーは壁いっぱいに絵を描き、本を何十冊も読みまくる。手品だってお手のもの。戸外に飛び出してはもう止まらない。車を走らせ、ロケットにまで乗り込んで夜空のなかに飛び立つ始末。町越え海越え月越えて火星にたどり着いたオリバーの眼前に大きく広がる静かな闇の世界。…そんな暗闇の中にひとすじの流れ星が光るのが面白い。望遠鏡の先にオリバーの家がありお家恋しさを募らせるのである。で、はるばるやってきたルートをそのままなぞるように引き返す。たどり着いた坊やの部屋では、ぬいぐるみたちが早く寝ようと催促する…。もちろん、長くて愉快で大胆な時間を費ったオリバー坊やが大きな伸びに大あくびを発して深い眠りにいたのは当然だった…というおはなし。夢かうつつか。おふとんトントンの幸せな一瞬がかくも大きな空想体験をもたらしてしまうとは子どもだけしか持てない時間ではないだろうか。

 横長見開きで左右 584mm にもなる大判サイズを活かしきり頁2コマのイラスト運びと1頁大・見開大の大胆展開が目を奪う。加えて動きやスピード感あふれる画面構成が迫力と愛嬌を添える。編集者でもある作者の力量を感じる作品である。

 先刻まで大騒ぎで興じていた子どもが静かになったと思ったら、遊びながらの姿勢ですっかり深い眠りに…。どこでもいつでも、のびのび育つ子どもに見られる暮らしの一面を描きあげた好作品。何度か読み返すと、どこかで『わゴムはどのくらいのびるかしら?』 ( M・サーラー/J・ジョイナー ) を彷彿とさせる絵本でもある。

 やはり、子どもの時間は大人の時間より長くて豊かである。

『ぜったいぜったいねるもんか』
( 文 = マラ・バーグマン/絵 = ニック・マランド/訳 = おおさわあきら/ほるぷ出版 )

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