絵本・わたしの旅立ち
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なんでも、繰りかえそう

 「いつまでたっても終わりにならないお話」という型の語り方があります。適当に題材を決め、そのときどきの子どもの状況にあわせて、勝手に作ればいいのです。

 例えば、——あんずの木がありました。あんずの実が鈴なりになっていました。風が吹くと一つのあんずがポトンと落ちコロコロところがって、池のなかへジャボン。また風が吹くと、またあんずが一つ……これが繰り返されて、えんえんと続くわけです。

 はじめはおとなしく語り手の言葉にあわせて、首をひねって風、次は首を上向きに、それからポツンとあんずが落ちる様子、そして体をゆさぶってコロコロ、ジャボン。そのあと他愛ないそんなしぐさを繰り返します。そんな調子で五、六回も繰りかえすと、ゲラゲラいかにも面白そうに笑いだします。

 なぜこんなに体をゆすっておかしいのか。つまり「また、あんずが落ちてくるぞ」と思っていたら、確実に期待どおり、あんずが落ちてきます。期待どおりの刺激が、期待通り繰り返されることによって、リズムに乗る爽快感があふれるように湧いて来ます。

 これは絵本などを、しつこく「読んでくれ」とあきもせず要求する原理でもあります。

 だからエッツの『もりのなか』ではぼくは森の動物たちと一緒に行動します。次々に仲間になって行進するわけですが、それぞれ仲間になり方が違います。でも、違いに関係なく仲間になっているということだけがリズミカルに繰り返され、その前後が少々大筋と関係なくても、「繰り返すこと」に刺激を受けるという筋立てに、当然読者が笑い出すわけです。

 しかしあまり単純な繰り返しは、慣れすぎると刺激とはならず、だんだん退屈になってウトウトし、それが更にいつまでもつづくと、結果としては寝てしまうようになります。

 だから、いつまでも同じことが永く続く話は、意外にも子どもを眠らせる話でもあったのです。

 しかし子育てや保育の場、ひる寝の場合はともかく、お話の最中に全員が寝てしまうのも困りますから、引き続いて全く新しい筋立てを持ちだして子どもの興味が再び目を覚ますような手だてが必要です。

 『もりのなか』では、ぼくや動物たちの行進のあと、かくれんぼが始まり仲間がいっせいに消えてしまい鬼のぼくだけ。更に父親が現れこのお話の幕をおろすという仕掛けが用意されているのです。この型は幼児向けの代表的な物語の構造で、読者に変化のある話として、満足させて終わることになります。

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 この「ねむる」という現象に対応したものは、幼児向の絵本は勿論、わらべうたの子守唄や眠らせ歌など同じ仕掛けですし、子育てにはなかなか重宝なもので、その他、あそび——〈いない いない、ばぁ〉などに利用されていますし、手遊びだけでなく、さまざまな場面で子どもたちを楽しませてくれます。

 なかでも子守唄の伝承は手堅く子どもたちの成育史の中で定着しているようです。私など、母が毎晩歌ってくれた「ねんねころいち、天満の市は……」という眠らせ歌を、布団に入って口ずさむうちに、安らかに寝てしまう経験を大人になってからも何度も重ねた覚えがあります。

 すこし脱線するようですが、「わらべうた」など何度も聞いているうちに、歌詞をすっかり覚えこみ、いつのまにかそのメロディに乗せ「自分勝手の歌」に展開することがありますから、興味深いものです。

 例えば「大黒さまというひとは」など全国どこでも知られているせいか、替え歌も多く、それが流布しています。大黒さまは例の七福神のあの大黒さまで、こんな調子のものです。

大黒さまというひとは

一で俵ふんまえて、

二でにっこり笑うて

三でさかずきいただいて……(以下省略)

 この数えうたを京都では、明治維新直後から子どもも大人も口惜しい気持に耐えて歌っていました。

 「太政官というひとは」(維新の政治家たち)。

一で宝うしなえて

二で日本わやにして

三で侍、廃止して

四つ四足喰いひろげ

五つ異人を大切に

六つ無性に髪をきり

七つ何でも税をとる   

八つ屋敷を売りはらい

九つここでおられいで

十で東京へ逃げていった

 太政官は西国の地位の低い若侍が新政府の要職を占め、わが世の春と謳歌していた風情を歯ぎしりしているように聞こえますが、「ないしょやが、あれは明治天皇はんのことやで。うそやおへん」と京都の老人たちが言いますが。


「絵本フォーラム」64号・2009.05.10


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