絵本・わたしの旅立ち
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絵本・わたしの旅立ち

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「もりのなか」は入口を開いて迎えてくれる

 ブック・スタートの運動が、拡がっていくせいか、わたしのまわりには「赤ちゃんの本」がハンランするようになりました。

 余計な文章ひとつない、リンゴやイヌやジドウシャ。デッサンも確かな、いわゆる「モノの本」ばかりでした。

 それは行儀よい美しい絵本でした。けれど毎日、そういう上等の絵本ばかりに接していると、何となく重くるしくなってくるのです。格式の高い家庭や大会社を尋ねたと同じように息苦しくなってきます。

 「こんなステキな絵本ばかりなのに何故だろう」次々に私自身の質問や疑問が私自身に向かって発せられるようになりました。そして、その理由が、少しずつわかってきたのです。

 モノの本は、モノの存在は、いやというほど正確にわかりますけれど(それは、それで赤ちゃんへの役割は果たしていますが)私は赤ちゃんではなかったのです。赤ちゃんとは別の普通のヒトだったのです。ヒトは社会から引き離されては生活ができません。いつも、誰かと関係を保って暮らしていかねばならないのです。私などそういう状態が、淋しい孤独の世界が、堪えられない対人関係のなかで生きてきたのです。

 対人関係ということはコミュニケーション、互いに語りあい、身を寄せあい交流し合いながら生きていく次元の世界でした。

 これでわかるでしょう。赤ちゃん絵本は、こちらからいくら話しかけても、向こうからは対話してくれないのがモノの本だったわけです。

 自由に好きなように、つきあえない固い世界でありました。一方的に向かいあって呼びかけても戻ってこない「片道交通」の世界だったのです。

 それが私を孤独にし、重苦しくイライラする場所へ私を追いこんでいたわけです。なぜ罪もないモノの本に、こんな対応をしてしまうのか、というと、久しぶりに『もりのなか』エッツに出会って、パッとこれまでにない解放されたことが、どれだけ嬉しかったか、どんなに私のからだと心との硬直を解いてくれたかを言いたかったからです。

 勿論エッツが、これが初めてではありません。ずっとずっと若い頃、わたしが絵本に関心を持ちはじめた日々の中で、真っ先に出会っていました。その時はその時なりに世評どおり、絵本として、絵本の原型のように構築された世界に驚いたものでしたが、このたび再読して、昔の自分とは全く違う不思議な感動を受けたものでした。

 最初のページをあけた『もりのなか』は絵と人物がいるだけで、その他に何も存在しないような再会でした。モノクロの森、墨一色で描かれた人物、主人公。

「これは何だ?」

と私が本に向かったときに、やっと主人公が物語の戸籍謄本の第一ページをを告げるように、紹介されます。

 ぼくは、かみのぼうしをかぶり、あたらしいらっぱを、もって……

 適確なイメージを提示してくれるのです。

 物語には、はじめと、まんなかと、終りがあって、まずはじめに物語に登場する人物と背景が、読者の心の中に位置を占めます。

 後になってわかったことですが、物語はこの「ぼく」という人物に始まり、そして終り、また深い森を思わせる木立の素描が、物語の舞台をちゃんと示してくれます。それ以外には何もない強烈な印象です。

 つまり物語の始めに、物語の中味を予想させる、物語を暗示させる映像が、形や姿で私たちに話しかけてくれるのです。

「安心してついておいで。物語はこの森から始まってその森で完結するのだよ」

それから、

「おはなしは、この男の子から始まって、最後までこの子から離れないで、君につきあってくれるのだよ。」

 ラッパまで、ひびかせて未来、いまだ未分の世界での戸籍を、チャンと語ってくれているのです。

 私はその作者の心づもりに気がついて、気がついただけで、私が嘗て勉強して、自分の体の中にしっかりと温めていた物語絵本の冒頭構成が展開していることを確認したのです。つまり絵本は自身を語りはじめたのです。

「この絵本とは、つきあえる!」

 『もりのなか』の入口は、こうして向うから私を迎えてくれました。当然私は『もりのなか』での旅人になることができたのです。

(この項つづく)


「絵本フォーラム」61号・2008.11.10


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