絵本・わたしの旅立ち
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揺らぐ絵本観のはざま

 人生には波があるようです。怒涛といえるような荒波もあれば、春の宵のさざなみもあります。困るのは突如現れてきては、人を驚かせ、すべてのものを破壊するような波、それらが押し寄せてくれば、アッという間にそのへんの世界を変えてしまいます。

 皆さん方も、自分の来し方、人生を振り返ってみると、波の気配を感じてその時の自分の波立ちに思い当たったことでしょう。

 わたしも広く子どもをとりまく文化だけでなく、「絵本」にしても、強い波を受けることによって、これまでの自分の主張や考えと、全く矛盾した変り身をしてあわてた覚えが何度もあるのです。

 たとえばこのシリーズの先号に書いた、ワイルドスミスの出現もそうでした。わたしは彼のことを「色彩の魔術師」と披露しましたが、その多彩で複雑な色合いの組み合わせは、わたしが素朴な青年時代以来、出会ったことも感じたこともない衝撃的な意味のあることのように思えたくらいです。

 そのときわたしは、ワイルドスミスは、自分で自分だけの新しい色彩を創造している、つまりこれまでのチューブに入っていた既製品の色や、箱に並んだ 36 本のパステルの精密な色彩とは無関係な色を創りだした者、これまで出会ったマックロスキーやマブリナすら超えることができなかった独特の世界でした。

 私は目が覚めたように、つまり彼の独創した未知の世界につきあうことのできた喜びに血が騒いだものです。たとえば絵本『とり』の特徴ある羽根の色つかいを指しながらも、

「もし、これがモノクロの素描のようなものなら、われわれは、このようなステキな色彩を読者としてイメージできるか、受容できるか、どうか」と当然のように考えたものです。

 しかしこれはこの色彩を上まわる色彩を呼び込む想像力のポイントとして、更に重ねて秀れた色付きを支持する人たち -色彩主義者に迎合する姿勢でしかあり得ませんでした。

 また逆に一方では絵本は絵本を支える絵、全体の内容を分担する限界を超えないことが、絵本の絵の宿命を、存在感を支持したりして、全く支離滅裂、私自身われながら、あきれかえる仕儀でした。

 笑わないでください。ワイルドスミスはわたしにとって、それほどのインパクトをもった絵本だったのです。こういうあやふやな姿勢、事大主義は、やはり絵本を大切に考える者には致命的と言っていい ___ などと反省したものです。

 しかし、こんな揺らめき、不安定な論議を一時的にも終わらせてくれたのは、絵本はその第二次的創造、絵本作家が創りだす第一次的、根源的な絵本の「内容」を別にして文章家が文章を、画家が絵を担当するという決まった内容を具体化する実際の表現 ____ つまり第二次的創造にこだわって、その段階の論議を先行させることのマイナス状況を否定しようという考えが、近ごろ一般に根強く存在し始めたからでしょう。絵よりも文章より、その表現のもととなった絵本作家の「本来絵本は、まず作家が相手・享受者に何を伝えようとしたいか。本来芸術としての独特の価値ある内容とは何か」を検討しなければならないのではないか ____ という常識論だったのです。

 大切なことは、まず技術として上手下手として評価できる絵や文章より、具体的な感覚として捉えにくいけれども、思想として、哲学としての考察を要求する常識論でした。何のことはない、わたしのなかで、堂々巡りをしただけだったのでした。

 こういう曲折を経て、やっと念願の『もりのなか』や『また、もりへ』『海のおばけオーリー』などのエッツにまで辿りつけたわけです。エッツばかりではありません。バートンの『いたずらきかんしゃちゅうちゅう』、木島始の『やせたぶた』や最近ではバンサンの『アンジーェル』などの傑作モノクロ絵本へひろがり、冗談に『鳥獣戯画』さえ含めたいと思うようになりました。

 今回正直に、わが揺らぎと告白のようになり、ゴメンナサイ。


「絵本フォーラム」60号・2008.09.10


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