絵本・わたしの旅立ち
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単純にサラッと考えることも!

 わたしが最初に、あのワイルドスミスに出会ったのは、たしか彼が初めて日本にやってきたときだった、と記憶しています。

 詩や絵本を出版している会社の社長が、ずいぶん肩いれをしていて、東京と名古屋と大阪とでワイルドスミスの作品を紹介するということを軸にして講演会を開催したものです。

 そのイベントに、どういう風の吹きまわしか、前座の講演をわたしがやれといいます。いまならロクに画家としての業績、また、多くの作品に習熟していないくせに、世界的作家のわが国への初登場など、まちがっても引き受けませんが、若かったわたしは、何よりもワイルドスミスの謦咳に直かに接しられることや、その結果、ひょっとしたらあの「色彩の魔術師」と呼んでいた、いわば豪華絢爛な絵のとりあわせが何処から湧いてくるのか、そのメカニズムが、ひょっとしたら得られるかもしれないと考えたに違いないようです。

 三十代を越えたばかりの私には、そんな好奇心がいっぱいで、予想どおり自分の推測が間違いないとわかったときの得意さを思うとドキドキしたものです。——赤面の至りです。

 ところで開会一番の話の話が終わって、可もなし不可もなし程度は喋ることが出来たと思って降壇しようとしたら、思いがけず会場から声がかかって呼びとめられたのです。

「ワイルドスミスの色彩について質問します」

 見れば私より二十歳も年上の高名な絵本の評論家でした。

「君は色彩の魔術師などと評価して安心しているようだが…」

 つまり彼の絵本の絵が質量とも文章を凌駕していて、本来絵本というもののバランスを崩しているのではないか。

 それに輪をかけて、絵の方が完璧にキッチリ描きすぎて、それだけで充分理解できる。だから子どもたちが想像して楽しむという余地を与えない。また逆に文章の方が想像力の基本的な起動的チャンス、となるエネルギーが、絵のデシャバリに圧倒されて、力を絶たれてしまって、本来の役割を果たそうとできない。せっかくの美しい絵本なのに。本来なら絵と文章とが相互に扶けあわねばならないのに、かえって調和を欠くおそれがあるのではないか。

 さすが巧みな絵本論でした。私も仕方なく、

「そういう危機的な条件が、いつもある。存在するというのが絵と文章とが共存しなければならない絵本のもつ宿命、または宿業というものでしょう。ありがとうございました」 と一応は挨拶をしてやめようと思いましたが、うまくやっつけられたみたいで業腹なので、一言つけ加えておきたい私でした。

「あまりむつかしく考えないで、作者や画家が何を言いたいのか、何を訴えたいのかが、感覚で捉えることができれば、まずは及第点というのではありませんか」

 苦しいところでした。ここで司会者が仲をとって休憩に持ちこんでくれたので、終わりましたが、そこで、墨一色で絵を仕あげる先端的なモノクロ絵本作家について説明しておけばよかったと、あとあとまで後悔したものです。

 というのは「絵にリクツを加えるより、何を語ろうとしているかが絵を読むということです」とアドバイスしてくれたのが、「こどものとも」創刊のころの松居直さんですし、その一句一句を私なりに延長したのが私だったと言えましょう。

 そのころから私のモノクロへの執着がはじまります。


「絵本フォーラム」59号・2008.07.10


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