たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 
「絵本フォーラム」第59号・2008.07.10
●●48

捉えようのない寂しさ・空しさをモノクロ素描が物語る

『アンジュール』

 毎朝、ぼくはハッピーと歩く。ほぼ5キロの緑道を雨の日も風の日も歩く。ハッピーは 12歳の牝犬。人間なら66歳という年恰好はぼくとほぼ同じ。ぼくの1年は彼女の5年。ぼくが70歳を迎えるころ、彼女は90歳を超える。で、彼女の生命の終焉をいやがうえにも考える。何といってもロープに繋がれる生涯。どれほど安穏でゆかいな暮らしを送れたか…。だいたい、ハッピーはぼくにとってどんな存在なのか。家族といってしまえば座りはいいが、やはり少し違う。生物・動物の一種として人間と同じく自然界に存在し、失ってはいけないものとしてハッピーは在る。だから、ぼくとハッピーは人間関係を超えた関係。悠久の大地に共存し寝起きまで一緒にする特異で親しい仲間なのだ。彼女なしの暮らしは考えられないし、彼女に不都合があればそれを取り除かなければならない。

そんな存在の犬を身勝手に弄ぶのも人間である。可愛いといって玩具扱いし、飽きがくるとポイ捨てに。犬畜生なる言葉まである。昨今の猟奇事件を惹起する人間たちを知ると、どう考えても人畜生が適切な用語ではないか。

 いやぁ、ひどいのがいる。例えば、ドライブを楽しむ人畜生一家。家族の一員などとほざいていたにちがいない飼犬を走行車からどーんと放り出す。罪の意識を多少感じるのか窓外に身を乗り出して振り返るがそれだけのこと。いきおいスピードを上げて走り去る。そんな、そんな…無茶な、と、ひたすら車を追う犬。何でだよ、どうしてだよ、…追うことだけに犬は全力全霊を傾注しつづける…。で、力尽きて、捨てられたことを、知る。捉えようのない哀しさ、虚しさ。それでも、車の匂いを嗅ぎつけてはかぼそい期待を足に託す。…とぼとぼと。こんな残酷非道な目に会う犬のたった一日を、舌を巻くほどにすごい素描で物語るのが『アンジュール』だ。かつて芸大学生に解剖画の習作を見せられて画家の卵たちが人体から馬・犬・牛・鳥などのリアルな解剖画デッサンの習練を積んでいることを知った。バンサンの鉛筆デッサンも解剖画修練の上にあるのだろうか。犬の骨格や筋肉の動きを正確に捉えながらスピード感あふれる巧みな筆致で見事な物語に描き上げた。驚き・慌て・悲しみ・哀しむ・諦める、デッサンの確かさから生まれる感情表現にぼくの胸はぐさりと抉られる。絵が語るすごい作品。

 こんな事態に人間が遭遇したらどうするか。家族からも社会からも見捨てられ絶望の淵に…。「誰でもいいから殺したかった」という事件があいつぐ現在社会。自ら命を絶つ人も 10年来3万人。人間を壊したのは誰か。人間は自然の造物ではなくなったのか。

 テキストを持たない絵本『アンジュール』。 54枚のモノクローム・デッサンだけが閑かに強く語る。悲鳴をあげるように物語る。

とぼとぼと歩く先に絶望の淵に立つ犬は何を見たか。ぽつねんと佇む哀しみを湛える少年。ふたりの目と目が合う。少年は笑みを浮かべ犬に近づく。で、少年にしっかと抱きつく犬。…このラストシーンは、いい。ひとすじの光明。ぼくは救われる…。

『アンジュール』(ガブリエル・バンサン/作、ブックローン出版 1986年)

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