えほん育児日記
〜絵本フォーラム第58号(2008年05.10)より〜

「なっちゃんをうんでくれてありがとう」

 次女の誕生は 12月。冬本番。山陰の冬は寒い。当然、新生児をかかえて外で遊ぶような気候ではないので長女も大半を家の中で過ごさなければいけないということに頭を痛めていた。木々や草、砂や土。外にはたくさんの友達が待ってくれているのに。なんだか長女を閉じ込めてしまったように感じていた。ところがその冬、わたしと長女はかつてない程多くの旅に出たのである。

  きっかけは一冊の本。『ぼくは王さま』。ある日長女はいつか読みたいと思い並べられていたこの本を持ってきた。迷うことなく側で眠る次女の寝息をバックサウンドにページをめくり始めた。
  早いかどうかは彼女が決めるのである。違うなと感じると「まだちょっと難しかったわ」「それは今度にして今日は別のにする」と言って再び本棚の前に戻る。1ページ、2ページと読み進む。娘から声は掛からない。
  それまでは挿絵の多い本を選んで絵のページが見たくて先にめくったりしていたのに、この日彼女の耳は続きを催促するかのように傾けられていた。もう一回とリクエスト。更には『王さまレストラン』も持ってきて膝に座った。
  このくらいになると目に見えた変化があったのである。それまで本を捉えていた彼女の視線が本と真正面との中間、なんとも言えない辺りを捉えるともなくただよいだしたのである。船出の瞬間だった。

  彼女がそれまで持っていたのは絵本の世界へのチケット。彼女はその世界を自在に操り、その中で遊び、ときにその世界を押し広げていた。そして彼女はこの時未開の地へのチケットを手にし、その足を踏み入れたのである。開拓者として。
  彼女がその世界を形作り、鮮やかに色をつけ、どこまでも広げていった。日常の隣の世界からぽーんと離れた世界へジャンプして見せたのだ。閉じ込められたと感じた部屋の中で二人、極上の旅を味わったのである。
  二人して驚き、笑い顔を合わせるときのその豊かさと言ったら!わたしたちは病みつきになり、まだ寝ていることの多い次女の横で来る日も来る日も旅にでた。主人はその旅の多さに舌を巻きながらも、彼女の土産話の一端でも味わおうと夜中に本を手にしていた。

 「あっそうだ!いいこと思いついた」長女のよくいう台詞。彼女は忙しい。「今日は温泉に行こう」そう言ってままごとキッチンの前に立ってお弁当を作り布やせっけんに見立てた積み木をかばんに詰める。部屋の一角はたちまち温泉に早変わり。一日はそんな「いいこと」であっと言う間に過ぎる。
  夜寝る前には山のようにある、したかったのにできなかったことが並べられる。彼女にとって楽しみは提供してもらうものではなく、内から溢れ出てくるものなのだ。旅で手にした想像の翼がこの冬ごもりの時期を愉快なものにしてくれた。気が付くと彼女は彼女の世界におり、私たちはただ見守り時にその世界の住人になる。

 そんな日常を揺るがす問題が降ってきた。ある日長女は目を真っ赤にして「死んでお墓に入るともう会えないの」と聞いてきたのである。これにはうろたえた。
  折しも長女は幼稚園入園の時期を迎えており、母と別れて過ごす時間に不安いっぱいで離れるということに敏感であった。また彼女は次女を喜ばせようと鈴を持って傍で踊っていて近くで転び、いかに危なかったかを聞き「なっちゃんがいなくなっちゃうとこだった。大切な大切ななっちゃんなのに」と号泣する体験もしていた。
  そんな様々な事が絡まり合い、彼女は「死」という難題に直面したのである。私たちは明言を避けた。安易な結論じみた事を差し出したくはなかった。それから彼女は「死」について書かれた絵本を読むたびにぽろぽろ泣いた。
  「ママはいなくならない?」「死んだおばあちゃんは寂しくないの?」。今まで自分と切り離されていた問題が自分に直結することとして捉えられていた。私たち二人もいたずらに幼い心を不安にしたくないと思い、また安っぽいオブラートに包むことで彼女のまなざしをはぐらかしたくないとも思い、一緒に絵本を読むことで彼女の心が降り立てる場所を共に探した。その日『わすれられないおくりもの』を読んだ。やはり涙して。
  二度目、彼女は絵本の中に描かれているアナグマに去られた動物たちの絵を、確かめるように励ますように優しくなでた。そしてわたしの方を見てにこりと笑った。そして絵本を戻し遊び始めた。しばらくして「なっちゃんが生まれてきて本当に嬉しいよ。なっちゃんをうんでくれてありがとう」と言った。彼女の心は居場所を見つけたようである。

 ありがとう。わたしたちはいつもそう言うばかりだ。

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