たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 
「絵本フォーラム」第57号・2008.03.10
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走って転び脛に傷のひとつふたつ、痛くなんかな〜い。

『ダンプえんちょう やっつけた』

 むかしむかし、学童期のぼく。学校から帰るとランドセルを放り靴を脱ぎ捨てて空地に一目散というのが日常だった。なにしろ年に一足の靴だったから裸足は必然。幸いに空地は白砂台地で裸足にやさしかった。

 空地にはいつも馴染みの仲間の多くが集う。遊びは季節や流行にもよるが多種多彩。チャンバラごっこから縄跳び合戦、相撲に野球とほとんど徒手空拳で、多くはお金と縁のない遊具を用いて遊んだ。大勢での遊びは長幼の序や集団でのふるまいかた、強者・弱者の扱いなどを自然に身につける。おなかの底から湧き出る楽しさを味わい、口惜しさ・痛さに相互をいたわる心まで学んだように思う。相当危ない遊びもあったが、少々のたんこぶや切り傷などは我慢する。大人たちもそんなことで大騒ぎすることはなかった。現在のモンスターペアレントなどという怪物にはとても想像できないはずだ。

 で、現在であるが、子どもを取り巻く環境は大変だ。少子化もこれに関係する。

 近代化とか現代化とは何を目途としたのだろうか。多くの人々には始末のおえない代物だったのではないか。人心を物欲金欲の塊に導いて生活スタイルを一変させて地域社会を壊す。どうやら家庭までぐらぐらさせている。だから、子育てには決死の覚悟がいるらしい。多くの家庭に祖父母はなく兄姉弟妹も少ない。隣人ともまともな付き合いはない。つまり、家庭も地域も子どもが育つ環境にない。子どもは遊ぶ広場なく仲間を持たず時間もなしのないないづくし。

で、子どもが欲しくても持てない夫婦がいる。少子化は先進国共通の病弊というが、果たしてそうか。といっても、子どものいる家庭を築こうとする人々が圧倒的なのはいうまでもない。なぜなら、それが生命を受け繋ぐ人間として自然の理なのだから…。

 共働きが一般的となった現在。働く意欲のある人々にとって子育てに不都合な環境が大きく横たわる。望むひとつは保育所だが、行政は容易に応えない。慢性的に不足する保育所。そこに無認可保育所という施設が誕生。保育活動に志ある人ばかりが設置者ではない。経済合理性のみを目的とする施設も存在するから厄介である。

無認可であっても天下一品の保育園がある。「わらしこほいくえん」だ。工場や小住宅の入り込む港町の一軒家である。園庭も遊具もない保育園。けれど、園長は「東浜の町中が運動場」と胸を張る。地蔵山の大木の蔓はターザンばりのブランコ飛びができるし住吉神社の階段は巨大なすべり台になる。こんな大地を教室に保育活動に励むのがダンプ園長だ。大きなからだのせいもあるがダンプカーのような馬力で保育に挑む姿から子どもたちがつけた愛称。絵童話『ダンプえんちょう やっつけた』はダンプ園長とくじら組の子どもたち九人のドタバタ活劇物語である。

古田足日・田畑精一の作者ふたりは戦中派だが、戦後から高度成長期初期の子どもをずっと見守りつづけてきたにちがいない。登場する素足に簡素な服装の子どもたち。九人九様の性格模様を作者は描き分けながら広がる自然と対峙するすばらしさを「どんなもんだい」といわんばかりに物語る。ついつい、ぼくも学童期を想い出し「そうだよなぁ」と手を打ってしまうのだ。

クライマックスは広い野原に囲まれたひなた山での九人の海賊たちと正義の味方ダンプ丸の大たたかい。棒切れで2回切れば敵は死ぬ。正義の味方が悪人で海賊が善人というのがいい。で、走って転び脛に傷のひとつふたつも創りながら戦いは展開する。痛くなんか熱中していると感じない。こうして勝負は弱虫さくらちゃんの活躍で海賊の勝ち。

本気で真正面から子どもに向き合うダンプ園長もすごいが、こんなにも生き生きとした子どもがいたのかとうれしくなってしまう物語。ほとんどモノクロームの線画で描かれるイラストが物語をぐんとひきたてる。子どもの動きや熱中する表情を見事に実況し、ときにカラー画面を披露して読者の胸にずんずん押し入ってくる。

 作品発表は三〇年も前の一九七八年。その頃からもう無認可保育所が登場したのかと難題課題を先送りするわが国の実際にぼくはすっかり考え込んでいる。

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