絵本・わたしの旅立ち
絵本・わたしの旅立ち

絵本・わたしの旅立ち
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人は人から学んで人になる

 絵本がとどくと、読者がどこから見始めるか興味があります。無表情でパラパラとページをめくるだけの人もあれば、表紙をしみじみと見て、ゆっくりと見返しを眺める。

 中には造本に興味をもつ人などは、わが家のペットの三毛ネコをあやすように、なでたりさすったりして、絵の手ざわりを楽しみます。

 だから、なかなか中味に入っていけません。こういう接し方は、文字と違って「絵」というものが客を迎えるような豊潤な魅力的な「かたち」を持っているからでしょうか。

 ところで私は少々変人のせいか、本を手にすると、まずひっくりかえして最後のページを見ることから、つきあいが始まります。というのは、ここでこそ出版社や編集者の絵本に対する姿勢や思いが、いちばん率直にまた正確にわかるのではないか、と考えられるからです。

 私たちの住居だってそうでしょう。門や玄関は勿論、そのあたりのたたずまいまで気にしますが、一方裏の勝手口周辺は、無理をして飾るような工夫もしません。大体外来者は御用聞きくらいで、あとは一家のゴミのたまり場になったり、あまり他人に知られたり見られたりしたくないようなものが、散乱するにまかせておくところでもあります。

 いわばわが家の恥部みたいですが、絵本の最後のページは、わが家の裏口と全く同じように、絵本をつくっている人たちのホンネや内緒の情報が、直接的に露見しかねません。しかし裏口という気安さに安心して、人は絵本つくりや、制作上の失敗をカバーするために、いろいろ工夫しているのがわかろうというものです。作者や文章書きや画家の経歴、人それぞれのコマーシャル。営業の方は営業のほうで「親切な与え方」など添えてサービスをしているように見せかけます。

 「奥付」というものです。

 でも、これまでもそうでしたが、奥付でわが家の内情がバレてほしくないためか、簡略そのものといっていいくらいソッケないのが普通です。何チュウコッチャ。それを出版界があらわれたはじめから、ずっと、続けてきたわけで、社長か会社の名義人だけが、やっと顔をのぞかせるだけでした。

 わたしたちは永年、そういう無粋な書きつけで辛抱してきたと言えます。そういうわけで、昭和 30年代のはじめから、絵本製作者が、それぞれ製作を分担するパートごとに奥付に麗々しく姿を見せたときには、ほんとうにビックリ仰天。まずはあきれ。そしてやや漸くたって、「これこそほんものだ。あたりまえだ!」感銘したものです。それが至光社の月刊絵本「こどものせかい」だったわけです。

 最近は発足時にくらべ更に拡大したように思いますが「絵本が出来るまでのこの社の絵本つくりの技術の道すじ」までが一見するだけでよくわかります。役割の項目だけを並べてその多彩さを確かめてみたいものです。

 スタッフ○印刷・業務進行管理・印刷担当・製本管理・製本○製版・業務管理○用紙・用紙取扱店○インキ○金融機関○推薦○編集発行・発行者・制作者○企画・編集○写真・植字・業務。

 これでは出版社としての会社の絵本製作や経営の秘密まで、同業者でなくてもわかってしまいます。どうして、こんな重い決断ができるのでしょう。

 武市八十雄さんは、いわばここの代表者であり物心とも支柱者ですが、私がそのころつとめていた女子大へ来られたことがあって、はじめて出会ったとき、

「あなたは私と同じように篤い基督者と思って原稿を注文したのだが、本式の仏教者だというではありませんか」

「別にヒミツにして、だまそうと思ったのではありません。すみません」

 すると武市さんは、さりげなく、

「いや信仰をもつものは誰でも頼まれたら同じことをしますよ」

 微笑されました。五十数年間、ここの絵本を制作して一度も崩すことのなかった原動力は、たとえ思想や信条が違っていても気にすることなく読みかえて、スタッフの存在と役割とを忘れなかった頑固で恐固なこの姿勢のせいだったのかもしれません。誰かも言ったように「人は人から学んで人になる」という言葉どおりの武市さんとの邂逅を、いまも篤く思いだしています。

 そして更に強烈だったのは「こどものとも」を創刊したばかりの松居直さんに巡りあったことです。京都から夜行列車で通っていつも荻窪の屋敷に泊めてもらっては、目の前で次々に世界の絵本に接近し猛烈なスピードでそれを乗り越えいくすがた。それに遅れをとるまいと、心筋梗塞さながら息ぎれすまいと汗を流した私でしたが、それが私の絵本への幼い旅だちの出発点になったのでしょうか。


「絵本フォーラム」55号・2007.11.10


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