絵本・わたしの旅立ち
絵本・わたしの旅立ち

絵本・わたしの旅立ち
− 19 −
妊娠したら絵本で語ろう
インプリンティングの仕掛け

 乳幼児の健診に際し、保健所では公費で赤ちゃん絵本二冊ほどを、税金から手渡す——というわが国のブック・スタートの運動は画期的なものでした。絵本史のなかでも後々まで残るものと認めながら、わたしは、生後何カ月目からでは遅すぎる、「妊娠したら絵本を語ろう」と言いだしたら、世間では失笑を買い、なかなか、ついてこようとはしませんでした。

 妊娠したばかりの状況のなかで胎児が受容できる筈はない。出生後二カ月目となると、明らかでもないが母親の声に少しでも反応することがわかってきた現在なら理解できる、「それが妊娠初期からでは、あまりにも突飛すぎる、非科学的だ」というのが反対理由でした。

 わたしも納得できるものの、人間のいのちは受精・着床が完了したときから始る筈ですし、人間の年齢はそこから考えるべきだという意見すらでてきた現在、たとえ人間のかたちすらない胎芽の時期、胎内280日のスタートをしたばかりだといっても、わが子であることには変りありません。その時間から「わが子のこころの栄養」ともいうべき胎児の生理的文化的環境や経験は、親として私が支える、責任をもつという決意や覚悟こそ持ってもらいたい——というのが、わたしのネライだったのです。

 しかし、わたしの考えは闇雲に、そういう行動につっぱしるということではなく少々仕掛けがあるのです。この際相手がわかってくれないから適当な絵本を適当に読み聞かせるというのではなく、相手が受容できるか出来ないかでなく、やはり母親の「人間として生きる姿勢」を、単純なキー・ワードでいいから繰りかえす——声を出して繰り返すことが必須条件なのです。

 しかもそのキー・ワードは、わたしはわが子と生涯にわたって「こういう生活を共にしたい」と親子の人間としての「生れてきた理由や目標」ともいうべき、慎重で且つ自らの指標となるべきキー・ワードでなければならない、と考えているのです。

 そんなキー・ワードを決定することこそ若い母親や(勿論若い父親も含めて)困難なむつかしいことには違いありませんが、そういうキー・ワードをさぐりあてる仕事が出来ることによって、人間は「人間の親となる資格ができる!」というべきではないかと思います。

 妊娠後 20週にもなると聴覚関連器官が発達してきて血液の流れの音、つまり心臓や外部からの音声が聞こえるようになる筈ですから、親としては最も洗練された自信のある声でキー・ワードという刺激を繰りかえします。いわゆる意味はわからなくても、音声はインプリンティング、刷り込みが始まるわけです。わたしなどは理科の生物学の時間にインプリンティングということを学習したわけですが、これが後に大きな働きの原動力になります。

 絵本での語りかけは出産後も当然、保健所からの赤ちゃんの本と並行することになりますが、乳幼児の発達とともに内容や伝達の方法が深化していく一方と比較するためにも、同じ絵本であっても、キー・ワードだけの繰り返しでは興味を持続することが出来なくなるでしょう。勿論個人差はあるものの、親を通して妊娠中になじんだ絵本など結局見放される運命になってしまいます。これが親との最初の断絶ともいうべきものでありますが、その後の断絶のなかの永い永い人生のある時機に、どこかでふっと刷り込まれていたキー・ワードに触れ、

 「これは、たしか……」

 漠然としていた刷り込みが、ある瞬間生き返り、親との断絶が一瞬のうちに解消し、嘗て意味を持たなかったキー・ワードとの深い接触の意味が復活、インプリンティング——刷り込みが確かに浮上する。こうして親との絵本をとおしての人間としてのより強固な人間間関係がセットされるのでしょう。

 急いでやや杜撰でありましたが絵本のかくされたもう一つの大きな役割、意味であろうかと思います。(次号から絵と複製・伝達に戻ります)


「絵本フォーラム」53号・2007.07.10


前へ次へ