絵本のちから 過本の可能性
特別編

「絵本フォーラム」53号・2007.07.10

絵本がくれたダイヤモンド
(児童文学作家)
飯田 栄彦

飯田 栄彦(いいだ・よしひこ)

1944年、福岡県甘木市生まれ。早稲田大学教育学部国語国文科卒業。
 児童図書に、1972年『燃えながら飛んだよ!』(講談社)、1975年『飛べよ、トミ!』(講談社)、1986年『昔、そこに森があった』(理論社)、1992年『ひとりぼっちのロビンフッド』(理論社)、『銀河のコンサート』(佼正出版社)。絵本に、1995年『でんかよおい』(福岡県三輪町)、1996年『シイの木はよみがえった』(海鳥社)など。
 現職、純真短期大学客員教授。朝倉市在住。


 去年の夏のことである。帰省していた長女( 27)と次女(19)が、上京する前夜、何やら照れ笑いを浮べながら私の部屋へ入ってきた。何事かと聞けば、絵本を読んでほしいという。お父さんの声で聞きたい、お父さんの読み聞かせで癒されたい、と。
  それもマーシャ・ブラウン絵・北欧民話『三びきのやぎのがらがらどん』とガース・ウィリアムズ作・絵『しろいうさぎとくろいうさぎ』の二冊。ふうんと私はとまどいながらもうれしくなったが、同時にこのことはあらためて、絵本や読み聞かせの効用について考え直すきっかけになってくれたのだった。

 この二冊は、長女より一歳年上の息子もふくめて、三人の大のお気に入り絵本だった。何度読まされたかしれないが、そのたびに子どもたち歓声をあげ、興奮し、部屋がゆれるような満足のためいきをついたものである。
  とりわけ息子は、この『三びきのやぎのがらがらどん』が大好きで、『おおきいやぎのがらがらどん』は自分だと主張してやまなかった。『二ばんめやぎ』が私か長女、『ちびやぎ』は母親か次女という具合である。
  息子はとくにトロル相手に大音声で名乗る場面が好きで、「おれだ。おおきいやぎのレオレオがらがらどんだ!」と名前の一部を入れて、歌舞伎役者もどきに力をこめて読んでやると、もう立ち上がり、こぶしをつきあげ、体を震わせて興奮したものである。
  長女は『カッチャンがらがらどん』、次女は『アヤチャンがらがらどん』という具合である。こう書きながら、そのときの三人の表情と声が、ありありと脳裏によみがえる。傍らの女房の笑顔ともどもに。我が家が一番にぎやかだったときである。この一冊はやがて、息子の危機を救うことになった。

 高一の冬、息子を退学という危機が襲った。詳細は省くが、三ヶ月におよぶ親子の苦闘の末、私は決断して息子にこの絵本のことを話した。息子は息絶え絶えながらまだ必死に通学しており、夜明け前の暗い道を駅へ向かって車を走らせながら、私も懸命になって話したことを鮮明に思い出す。
  今のおまえにとっての敵は、退学というトロルだ。こいつは手強いぞ。油断するな。でも心配しなくていい。おまえは絶対に負けない。お前は『おおきいやぎのがらがらどん』が大好きだったな。あいつはお前の心の奥に住んでいて、いざというとき、きっと出てきて助けてくれる。トロルをやっつけてくれる。必ず勝つ。そうだったろう? だから安心して好きなだけ休めばいいよ、と。

  これがどれほど説得力があったのかは不明だが、新学期から始った息子の休学は半年間におよんだ。そして秋、息子はまさに劇的な復学をはたしたのだった。その感動的なドラマはまたの機会にゆずらざるを得ないが、これは息子がくれた特大のダイヤモンドである。
  省みると、私は父親としては無力だった。ただ読み聞かせをしただけなのだが、それがかりに息子を救ったとしたら、それは一冊の絵本の力や可能性を図らずも実証したことにはならないだろうか。それに付随することとして、もう一つの親子の係わり方が可能である。それは対話である。

  会話が何気ない日常の言葉のやり取りだとすれば、対話はあるテーマに沿った、論理的、思考的な情報の開示、もしくは価値観の提示をいう。この対話の習慣がまがりなりにあったおかげで、私は息子の危機に親として立ち会えたのではないかと思うのである。
  といって、なにも難しく考える必要はない。子どもと同じ目線に立って子どもと深く係わること、子どもといっしょに自分の子ども時代を生き直すこと。それを読み聞かせは容易にする、というのが私の実感である。

 かくいう私は、かれこれ六十年前の幼少期に、母親の読み聞かせによって本と犬好きな少年になったのだった。布団の中で、母は腕を私の枕がわりにさし出し、私の頭越しに本を持ちながら読んでくれたのである。私は母の顔を一心に見つめながら聞き入ったことを思い出す。

 このとき私は母から、読み手は本人のもっとも美しい表情をし、もっとも優しい声を出す、ということを学んだ。現在の母親は認知症の末期で声も出ないが、私の脳裏には、若く美しかった母の優しい声が『フランダースの犬』の物語とともに今もこだまする。これが、記憶している最初のダイヤモンドである。

 その母に、あるとき思い立って読み聞かせを始めた。昭和十四年中央公論社発行、谷崎潤一郎訳の『源氏物語』。母が娘時代に購入し、嫁入り道具の一つとして持参したものである。折々に読みついでようやく『若菜』まで来たが、私の声は母の心に届いているだろうか。実はこの訳本についても信じられないほどのドラマが出来するのだが(これも割愛せざるを得ないとして)、この一連のエピソードもまたまちがいなく母がくれたダイヤモンドの一つである。

 さて。冒頭の当夜、残念なことに件の二冊は手元になかったために、代わりの絵本を五冊読んでやることにした。いずれもかつての愛読書である。娘たちはなつかしさに歓声をあげて拍手し、聞き入り、ときには身をよじって笑った。そしてお父さんありがとうと礼をいうと、満足そうにひきあげて行った。二人は今長男といっしょに暮らしているが、それぞれに自立する日は近い。長女は結婚、次女は就職、そして長男は職場に近い新住居へと、旅立ちまであとわずかである。

 ともあれこうして、私の心の中にまた一つダイヤモンドが生まれた。凡庸な父親でしかない私は、子どもたちがそれぞれに良き伴侶を得て、夫婦でいとし子に読み聞かせをするような平凡な幸せをつかんでほしいと願う。そのとき、物語といっしょに私の声がよみがえるのであれば、ほかに何を望むだろう。母からのダイヤモンドを手渡したことになるのだから…。

・『三びきのやぎのがらがらどん』北欧民話、マーシャ・ブラウン/絵、せたていじ/やく、福音館書店

•  『しろいうさぎとくろいうさぎ』ガース・ウィリアムズ/さく・え、まつおかきょうこ/やく、福音館書店


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