卑怯を憎み恥じる心

 かつて諸外国から「礼儀正しく高貴で真面目な国民性、そして最も滅ぼしてはいけない民族」と尊敬されてきた日本は、いつの頃からか、卑怯な国になりました。

 例えば、「いじめ」は特定の個人に向けられた卑怯な行為と言ってよいでしょう。もちろん、「いじめ」を見て見ぬふりするのも卑怯です。自分もいじめられるから「いじめ」に加わるというのは、なおさら卑怯です。ところが今、物隠し・仲間はずれ・からかい・暴行といった卑怯な「いじめ」が、学校では日常的に見られます。しかも、知らん振りしたり、加担したりする子どもはいても、それを咎める子どもはほとんどいないのです。

 高校の必修科目の未履修も卑怯でしょう。「決まりよりも損得だ、大学受験に不要な勉強などするな、ばれなければいい、ばれるわけがない」―。しかもそれは、多くの高校教師がほぼ全国でやっていたことです。

 看護師が不足しているから、もっと足らないフイリピンから金を積んで連れてくる―。これだって、私の感覚では卑怯です。

 例を挙げれば、きりがありません。タウンミーティングでの「やらせ発言」―。意図的な給食費滞納―。若者らのホームレス襲撃―。粉飾決算やインサイダー取引による不当な金儲け―。 家 族思いの高齢者を平気で騙す「振込め詐欺」や「リフォーム詐欺」―。

 まさしく卑怯な日本、そして美しくない日本です。 我々は、忘れてしまったのでしょうか? 「 弱い立場の者を苦しめるのは卑怯だ。困っている者を助けないのは卑怯だ。自分さえ良ければいいというのは卑怯だ。人の気持や愛を裏切るのは卑怯だ」ということを―。そして何より、「卑怯こそ、人として最も恥ずかしい行為である」ということを―。

 絵本「ぜっこう 」( 柴田愛子/文、伊藤秀雄/絵、ポプラ社 )を読んでみましょう。“がく”に 絶交を宣言された“しゅんたろう”は、つらく沈んだ毎日を過ごします。やがて“しゅんたろう”は、自分の身勝手さを反省し、絶交をといて欲しいと頼むのです。それを見ていた“あいこ”も、許すべきだと言うのです。

 悪い奴は許せないと反発し、「どろぼうをゆるせるのかよ!」、「ひとごろしもゆるせるのか!」と激しく迫る“がく”―。その一つ一つの問いへ真剣に言葉を返す“あいこ”―。次第に言葉を失くしていった“がく”は、とうとう「 ぜっこうを とく」と呟き、目から「なみだがでた」のです。

 ところが、私の読み語りを聞いていた小学生は、この場面の意味が分かりません。六年生の教室で「なぜ涙が出たのか?」と尋ねても、適当な言葉や表現が見つからず、首をひねる子どもが多いのです。もしかしたら、大人にも分からない者がいるかも知れません。なぜなら、自分の強い気持・決定を「義」のために自ら曲げた悔しさというのは、実体験がなければ理解・共感はできないからです。

 「義」というのは、最近あまり使われない言葉です。しかし本来は、正義・信義・大義など、社会の礎(あるべき姿)とも言うべき大切な感覚です。しかも卑怯を憎み恥じる心さえあれば、国によらず人によらず、自然と育ってくる感覚でもあるのです。 

 日本は今、卑怯が蔓延した危機的状況と言えるでしょう。せめて心ある大人は、子ども達へ真剣に伝え示すべきだと思うのです。自らの言葉と手本で、「卑怯を憎み恥じる心を持て。その心さえあれば、人生、決して間違えない」―と。

 
「絵本フォーラム」51号・2007.03.10

鈴木一作氏のリレーエッセイ(絵本フォーラム27号より)一日半歩

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