こども歳時記
〜絵本フォーラム第51号(2007年03.10)より〜
親の過度の準備、親の過度の期待  

 旧暦では立春が一年の始まりだったためでしょうか。春の気配が心を浮き立たせるためでしょうか。何かを始めたくなる季節のようです。「うちの子に何か習わせようかしら」という声をよく耳にします。

 『ウエズレーの国』(ポール・フライシュマン/作、ケビン・ホークス/絵、千葉茂樹/訳、あすなろ書房)という絵本をご存知ですか。みんなが同じ髪型で同じ形の家に住む街でウエズレーは自分の価値観で動く変わり者のいじめられっ子。でもウエズレーは気にかけず夏休みに壮大な事を始めます。庭に自分の文明を築いたのです。自分だけの植物を育て、自分だけの服を作り、さらにはウエズレー語まで作り、仲間外れにしていた子たちを「おもしろそう」と振り返らせてウエズランディア(=ウエズレーの国)の一員にしてしまいます。わくわくしたり、自分の意思を通す強さやいじめっ子を受け入れるしなやかさに引き込まれたり、爽快感を味わえる一冊です。

 でも、今の子にそんな「想像」や「創造」、しなやかさや意思の強さを期待できるものかと不安になってしまいます。

  習い事を始めれば目に見えて何かができるようになります。しかし、近年、「早いうちに」「可能性を伸ばしてやりたい」と願う親の準備が過度になっていないでしょうか。目に見える成長と引き換えに、元来備わっている想像性や創造性を手放してはいないでしょうか。受身の成長の機会ばかり与えてはいないでしょうか。

『ウエズレーの国』
(あすなろ書房)
「ご馳走」よりも「空腹感」

『あまがさ』
(福音館書店)
 

 能動的な成長。『あまがさ』(やしまたろう/作、福音館書店)がそれを見せてくれているように思います。モモは三歳の誕生日に生まれて初めて雨傘と長靴を買ってもらい、嬉しさのあまり晴れている日もなんとか傘を使おうとします。でもお母さんは決まって雨の日までとっておこうと言います。毎日、毎日雨を待ち、ついに雨が降った日、傘を手にモモは初めてお父さんともお母さんとも手をつながず一人で歩いたのです。モモが「大人の人みたいにまっすぐ歩かなきゃ」とこっそり自分に言い聞かせる場面に能動的な成長を感じます。自分から大人へと踏み出したのです。自分で踏み出した一歩は自信につながったことでしょう。

 そしてその成長へと導いたのはお母さんでしょう。もう手元にある傘を使わせず何日も待たせたのです。そのことが傘をさすということをより特別なものにし、「大人みたいに」という緊張感と高揚感をもたらしてくれたのです。傘をさすことが特別な世界を届けてくれたことは、雨の奏でる音楽の描写が繰り返されていることからもうかがわれます。

 そしてもう一つこの絵本全体から感じられるのは、娘の成長を見守る喜びに溢れた温かなまなざしです。このじっくり待ち、見守るという姿勢が子ども自らの成長を引き出したのではないでしょうか。

  今の子どもは目の前に次々と準備される物や体験というご馳走に慣れきってげっぷがでている状態のように感じます。そこには感動や能動性があるでしょうか。今必要なのは「ご馳走」より「空腹感」かもしれないと思うのです。(くすのき・まどか)

前へ次へ