たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 
「絵本フォーラム」第51号・2007.03.10
●●40

恐怖心を隠し味に現実世界と空想世界の往来体験を痛快に描く

『かいじゅうたちのいるところ』

 戦後の昭和 24 、 5 年頃、中国から引き揚げて間もなかったぼくの家族は宮崎串間の崎田海岸にあった祖父母の家に身を寄せた。ぼくは 4 、 5 歳の幼児。なんにもない時代だったけれど崎田海岸の景観はすばらしく、豊かで大きな時間が流れていたと記憶する。

 時には父の教え子Tが馬に乗せてくれて海に入った。馬洗いのついでだったが、あの大きな馬が大海を泳ぐ、巨躯ににあわず優しい気性の持主であることを、ぼくの肌は知る。海岸で日がな遊びに興じていると「ごはんだよ〜う」とゆうらりとした母の声が聞こえる日常であった。ふんわりとした家庭で祖母と母は無条件に優しかったが、祖父と父は怖かった。まだまだ軍服姿が往来し敬礼調の挨拶が行きかう時代、幼児も悪戯すぎればきつく叱られた。祖父から煙管が頭に飛んだし父からは拳骨だ。泣いても容赦なし。

あるとき、母が大連で患った病気治療で病院へ一人で出かけるという。それも二日もいなくなる。敗走する戦渦のなかで母にへばりついていたぼくは、母の不存在を怖しいことと思っていたようだ。母や祖父母にいくら諭されても置いてきぼりにされるのを容認できない。母が出支度を始めるとついに涙の堰が切れた。そこに祖父の煙管が頭に飛ぶ。“聞き分けの出きん子はイカン”と恐怖の押入れに閉じ込められた。バタバタ暴れ泣きとおすうちに涙は涸れ果てる。不思議なことに恐怖もしだいに和らいで幼児の抵抗は万事休す。で、ぼくは何時のまにやらグースーと寝入ってしまった。絵本『かいじゅうたちのいるところ』は、幼児期のこんなことを鮮明に憶い出させる。

叱られて厠や押入れに閉じ込められた体験は誰でも持っているように思う。稚ない想像で恐怖心を募らせ、そこに臨むことから克服する心を満たすという子ども時代の体験。そのたびに現実世界と空想世界を行ったり来たり。

センダックの描く世界はぼくの体験より奔放だ。オオカミのぬいぐるみを着て散らかし放題大暴れのマックスは母親の怒りをかって夕飯ぬきで寝室に閉じ込められる。

マックスはなかなか図太く、早々に寝入ってナンセンスな空想世界へまい進する。寝室はすっかり森や野原と変化し波まで打ち寄せて舟の旅となる。着いたところが“かいじゅうたちのいるところ”。ギョロギョロ目玉の、すごい爪や角に大きな鼻を持つ奇怪な怪獣たちがマックスを襲おうとする。特大の頭にガチガチ鳴る鋭い歯。“ウォーっ”と吠え立てる声ももの凄いのだから、これは怖い怖〜い…。ところが、マックス少年は怪獣たちを少しも怖がらない。逆に怪獣慣らしの魔法なんか使って「しずかにしろ 」と怒鳴りつけ怪獣たちの王になってしまうのだから痛快である。

で、三つの見開き頁を全面断ち落としのテキストなしで広く大きく展開して披露する大迫力の怪獣踊り。満月の夜にギョロ目を剥いて黄色く輝かせた怪獣たちが大口開けて“ウォーっ”と雄叫びをあげ飛び跳ね踊り、木の枝にまでぶらさがる。ついにはマックスを肩にかついだ怪獣たちがエイヤーソレヤーと音頭をとりながら地響きたてる異様な大行進。この部分テキストなしだから擬音はすべて絵が伝えてくれるのだが豪快な踊りを堪能できる。このように見せられると怖い怪獣イメージはすっかり吹き飛び滑稽で親しみのある怪獣たちに見えてくる。扉ページで見せたどきっとする怪獣の怖さはいつの間にか隠し味となっている。

怪獣を怖がらないマックスは虚勢を張って怪獣と対峙したのではないかと、ぼくは考えてみる。どうだろうか。作者センダックは、恐怖心を感じそれを克服する過程をどう描くか練りに練り、それを読者に判断させるように企んだのではないかと思うのだ。

さんざん踊りまくってさすがに飽きたマックスはなぜか寂しい表情を見せる。空想世界から目覚めるときがやってきたのだ。お母さんのもとへ帰りたくなったマックスに「たべちゃいたいほどすきなんだ。たべてやるからいかないで」と叫ぶ怪獣たちのこの言葉がすごく胸を打つ。ふたたび寝室に立ったマックスが温かい夕食をテーブルの上に発見して大ファンタジー・ドラマは閉幕する。

無条件に面白く凄い絵本。食いつくのは子どもばかりではないだろう。現実から空想へ。そしてふたたび現実世界へ。広がりある大胆で魅力いっぱいのイラスト、一見ぶっきらぼうで歯切れよいテキストで構成されたナンセンス・ファンタジー、その作品づくりには舌を巻くばかりである。
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