絵本のちから 過本の可能性
特別編

「絵本フォーラム」47号・2006.07.10
犬もにっこり笑ってる
梅田 俊作(画家・絵本作家)
梅田 俊作(うめだ・しゅんさく)
1942年京都府丹後半島生まれ。 絵本作品に『えすがたあねさま』(ポプラ社)、『あんちゃんのたんぼ』(童心社)、『おやつがほーいどっさりほい』(新日本出版社)など多数。エッセイに『おやじオロオロ子はスクスク』(文溪堂)、『山里ノスタルジー』(ベネッセ)がある。

ゆるりと流れる日和佐川


 家の前を日和佐川が流れている。
 広すぎず、かといって狭すぎずの、それは程よいホームサイズの川幅。
 心地の良さにまかせて、朝から暗くなるまで、ずっといる。
 その間食事の、コーヒーの、電話のとりつぎのと、家との間を息せききって往復するカミさんも、それが程よい運動になるのだろう、そんな日はいつにもましてハツラツとしてみえる。
 来客ももちろんここへお通しする。
 ときには川に浮かべたボートで遊び、石の水切りで汗を流し、足を滑らせたあげく、川原に背広、カラーシャツ、ネクタイ、ズボンとサラリーマンの四点セットを日に干して、それからようやく用談に入ったこともある。

 この川の上流近くにカヌーイストの野田知作さんが住んでいて、某日川原でラジオ番組の対談をしていると聞きこっそりと見にいくと、あたりに衣服が散乱していて、なんのことはない対談相手の元大学総長や機材を放り出した録音技師の三人がパンツ一枚で水しぶきをあげ、子どものようにはしゃぎまわっているのだった。  またあるときは、東京からはるばるやってきた出版社の人は、川原の応接間に感動のあまり仕事を忘れて終日はしゃぎ、帰りの徳島空港から電話で仕事の用件をすませたあとに言ったものだ。
 「美しい川は子どもの頃の黄金時代にタイムスリップさせてくれますねぇ」
 さて、いつもはせいぜいが猿だとか猪、鹿、蝶が遊ぶばかりのひと気のない静かな川原に、ときどきふっと気まぐれにやって来る人たちがいる。

 私が方々で「ハリウッドの俳優たちが足元にも及ばないほどの豪華なプールを持っている」だの「うっかり口を開けていると鮎が五、六匹とびこんできて溺れそうになる」だのと大ボラを吹聴して歩くので、やたらと乗りやすい人だとか検証マニアらしき人なんかが訪ねてくるのだ。なかには大型バスを仕立て岐阜の山のなかからはるばると「手に手をとって輪になってフォークダンスに興じる手長エビの満月の夜の集会」とやらを確認にきた団体もあったりして。
 いつの頃やらそんな来訪者のなかに、不登校やひきこもり、ちょっとした事件で居場所をなくした少年たちが加わるようになっていた。当時出版したいじめがテーマの『しらんぷり』が、そうした子たちや両親、教師の関心を呼び、私もそういう交流を望まずにおれない宿題を重く背負っていたせいもある。

 いじめを前にして見て見ぬふりをするのは、いじめに加担していることと同じではないか…。
 『しらんぷり』の読者の一少年がいじめに立ち向かい骨折するという重症を負った。見て見ぬふりをするのも自分を守るための知恵のひとつではないでしょうか…。両親からの手紙にあった。
 深刻な事実を前に、「それでもやっぱりしらんぷりはあかん」と作中の言葉そのままに返事をしたためることはできなかった。
 「おっちゃん、ぼうっとしとらんで、はようボートに空気を入れてえな」
 「おっちゃん、あの子、ウンチ言うとるよ。はようオシメはずしたり」
 少年といわず訪ねてくる幼児、ばあちゃん、母ちゃん、父ちゃんを混じえて、泳ぎ、潜り、釣り、バーベキュウと遊びに遊ぶ。夜はそっと少年を誘いだし、カジカ蛙の鳴く闇のなかひっそりと手長エビとりで時間を忘れる。
 まとわりつく背の宿題を、ときにうっちゃり、ときに考え、その間『14歳とタウタウさん』『月の学校』と、『しらんぷり』に続く仕事に没頭しつつあるときに、一人の少女に出会った。



母ちゃんの力にゃかなわん


 医者がサジを投げ出すほどの重い摂食障害を患う一三歳。その少女の命を甦らせたのが、がっちりとスクラムを組んだ地域と学校、百人ばかりが住む漁村の人たちだった。分校の統廃合に揺れるなか、「子どもはわしらの希望、学校は宝」と漁村留学に取り組んでいた。
 少女のホームステイを引き受けた家庭が、とりわけおかみさんや担任が、壊れる寸前ぎりぎりに追いこまれていく。もうここまでと入院治療を勧めるカウンセラーに、「またぞろ同じことを繰り返させるのか。引き受けた限りはわしらの責任」と、村人みんなが「火の玉になって、この子の命は守りぬいちゃる!」。
 集落の人や教員たちには途方もなく長い半年間、専門家に言わせれば奇跡としか思えない半年間で、少女は命を、元気を取り戻す。
 諸々の事情を断ち切ってようやく駆けつけてきた母親と暮らすうち、全身にみるみる輝きを増す少女を見て、それでも集落の人たちは、いみじくもこう言いあうのだった。
 「わしらがよ、束になってかかってもよ、しょせん母ちゃんひとりの力にはかなわんなァ」

 私の仕事場兼応接間にやってくる少年たちや、漁村留学にきた少年たちと時間をともにするなかで、感ずることがいくつかある。そのひとつが「人間不信」。もっと言えば「大人不信」とも解釈できる四文字。
 競争社会で生まれるストレスにあえぐ周囲からの理不尽な攻撃の的にされた少年がいる。人間不信にうずくまり、ふわふわと宙に漂うようにいたその少年が、五体に汗をちらして働くおっちゃんやおばちゃんたちの確かな日々の暮らしのなかで甦っていく。

 煽られ、追い立てられ、つんのめるようにして生き急ぐ大人社会が品格を失い、節をかなぐり捨て、これでもかとばかりに少年たちの夢を目標を踏みにじり、汚し、消していく…。
 私たちの住むこの国が、高度成長期にそれ行けやれ行けと駆けまわり、そして今あらゆるものが溢れ氾濫するなかで、置き忘れ見失っていることは、日々の暮らしのなかで子どもたちの健康な活力を育むというそのことではなかったのかと。
「船の出し入れひとつにしても、みんながみんな力あわせにゃ、漁もできん、一日も暮らせん、そんな悪条件の港やった」と村の長老は言う。すっかり整備され集落自慢の良港となった今でも、力をあわせて生きぬいてきたその伝統は強くある。

 この漁村にひかれ通って六年。その間ただの一言も他人の陰口、悪口を耳にしたことがない。
 狭い集落での暮らしでは、陰口、悪口の腐った言葉が人と人の輪を錆びつかせてしまう。言いにくいことはユーモアにくるんで伝えるおおらかさ。それをここで暮らす少年たちは身をもって学びとる。
 不登校を続ける四兄弟が漁村留学にやってきたその日から喜々として学校に通いはじめている。
 「親がよ、大人がよ、生き方を変えたその時点で、子どもらもよ、キッパリと変わるんじょ。ほれ見ろ、あの家族がつれてきた犬までニッコリ笑い顔ぞ」
 この人たちを、分校の先生、子どもたちのことを、『漁火 海の学校』として書きあげたとき、『しらんぷり』で重傷を負った少年やご両親のことが胸に強く甦ってきたのだった。(うめだ・しゅんさく)


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