たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第46号・2006.05.10
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じいさんだって充分に幼児心を取り戻せるのだ

『ふらいぱんじいさん』

写真  幼児や児童の眼はどのように外界を捉えていくのだろうか。もちろん、大都市に生まれた子どもと山川草木豊かな地方に育つ子どもとで違うだろうし、大人や周囲の人々がもたらす情報刺激によっても違うだろう。自分もかつて子どもであったのに、子どもの育ちのありようをすっかり忘れてしまうのがどうやら大人たちである。異常に早期の知識獲得を望んだり、対照的に子どもを舐めてかかって何時までも玩具のように扱ったりする輩もいる。とんでもないと思う。子どもの一分一秒は大人たちの一年一ヶ月にも匹敵すると考えるのがよほど正鵠を射ると想うからだ。

 実際、無言語期の赤ちゃんは、きょろきょろと目を配したり一点を凝視したりして色や形や動きを追い、耳で人間たちの交わす言葉や自然の発する多様な音を聞き入りながらコミュニケーションを成立させて猛烈な勢いで知識を獲得し思慮する心を育てていく。目や手振り脚ぶりで訴える欲求行動や共感行動に母親や家族がきちんと向き合えばコミュニケーション能力はぐんぐん伸びて三、四歳ともなると他と交わり社会に参加できる最小限の知恵は身につくとされる。いわゆる“三つ子のたましい”である。だから、好奇心・冒険心が横溢し記憶力もするどい幼児や児童に、大人たちは振り回されることが多いはずで、大人側が幼児・児童を自分の思いのままにしようとすると痛いしっぺ返しに会う。

 大人のぼくは、こんな風に脳裏を燻らしながら自分が幼児だったころはどうであったか反芻できないものかと一冊の幼年童話『ふらいぱんじいさん』に向き合うのである。
 擬人化される主人公のフライパンはおじいさん。ぼくも孫を持つ爺だからふんわりと親しみが湧く。じいさんだから当然に齢を重ね少々くたびれているのだが、気概は“まだまだ”の想いを保持している。ぼくも似た者同士と想いたいのだけれど……。

 フライパンじいさんは家族のために永いこと玉子焼きをつくってきた。精魂込めてきた玉子焼きはじいさんのなによりの生きがいだった。ところがある日、新人の目玉焼き鍋が家族に迎えられる。選手交代である。じいさんの役目は新人に奪われ野菜炒め要員に格下げ。どんな社会でも同じで現実を眼前にするフライパンじいさんの姿は哀愁を誘う。

 だが、しょんぼりするじいさんに「元気をお出しよ、世間は広いんだ。こんなところでくよくよしていないで旅に出たらどうだい」とゴキブリが励ますではないか。で、はじめて戸外に飛び出したフライパンじいさんは、ジャングルから砂漠へ海へと大旅行を敢行する。じいさんには、外界の広さや明るさ、小鳥たちのさえずり、ジャングルで出会うたくさんの動物たちの姿やふるまいのひとつひとつがすべて新鮮に映る。まるで幼児や児童のように胸をときめかせ目を見張り、好奇心を奔らせてゆく。物語のなかのフライパンじいさんは年寄りではなく幼児にすっかりなりきっているのだ。

 ジャングルのヒョウ夫婦はじいさんを鏡と取り違えてフライパンに映る黒い顔相に驚いて白だ黒だと喧嘩をはじめ、サルたちは太鼓がわりに「かんからかん」と敲きまくる。じいさんが、見上げるほどのオスのダチョウを見つけて「た、たまごをくれ。おおきなめだまやきをやきたいんだ」と叫びながらせがむくだりは如何にもノンセンスだが不思議に愉快。そうなんだナァ。ダチョウに蹴飛ばされて砂漠に辿り、海ではトビウオたちと波上を飛行するなどじいさんと動物たちとの交流はノンセンスな話材ばかり。ところが読み続けると幼児・児童が夢中になるファンタジー世界にストーンと導かれることにハッと気付かされるではないか。何の抵抗も感じることなく、幼児・児童はすぐにノンセンス世界へ入る。感受性の衰え続けるぼくにはうらやましいかぎりである。

 フィナーレは小鳥たちに運ばれた梢におさまり小鳥たちのねぐらとなって小鳥たちと暖かく過ごすフライパンじいさんの姿が描かれる。テキストとともに堀内誠一の一気に筆を走らせた挿絵がシンプル明瞭に視野に入り込み、ソフトな描線が心を和ませる。
 作家・神沢利子の幼年童話には、手垢にまみれない透きとおった童心をさらりと提示し日本人が得手でないといわれる滑稽戯言(ユーモア)の趣を存分に読者に向けて響かせる。ぼくは、和製・幼年ファンタジー童話の傑作と讃えたいと思う。
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