えほん育児日記

ふくながこせいさん   「絵本で子育て」センター副理事長大長咲子

~絵本フォーラム第104号(2016年01.10)より~  ●4●

愛新覚羅家直系の子孫 福永嫮生さんに聞く
大長咲子(絵本講師)

 10月17日は夏の名残を惜しむような陽射しの強い日でした。緑豊かな西宮某所にあるご自宅に、福永嫮生さんをお迎えにあがった私は、木漏れ日を浴びながら嫮生さんが現れるのを待っていました。

流転の王妃  その日は、NPO法人「絵本で子育て」センターの藤井勇市顧問、事実報道社の中西正幸デスクと三島史路氏に同席させていただき、福永嫮生さんよりそのドラマチックな人生について、お話を伺うという機会をいただいたのです。

間もなく、嫮生さんが穏やかな笑みをたたえ、玄関口に現われました。ここから甲子園球場の近くにあるノボテル甲子園に場所を移し、昼食をいただきながら嫮生さんから貴重なお話を伺うことになっています。

  さて、ここで少し福永嫮生さんについて説明をさせていただきたいと思います。読者のみなさんには、もうご存じのことと思いますが、福永嫮生さんは愛新覚羅溥傑と浩の次女として1940年に東京でお生まれになりました。父親の愛新覚羅溥傑は清朝最後の皇帝で、のちに満州国皇帝に即位した愛新覚羅溥儀の実弟。そして母親の浩は天皇家の縁戚にあたる嵯峨侯爵家の出身でした。

両者の結婚は1936年に関東軍主導のもとでとり行われました。当時、関東軍に操られ、いわゆる傀儡国家であった満州国へ対する政略結婚でありました。 このことは『流転の王妃』(文藝春秋社、愛新覚羅浩/著)に詳しく記されています。

 今回の会見に向けて、無知である私は、予習のつもりで『流転の王妃』を読み始めました。そして、読み進むにつれ、愛新覚羅浩の半生についてはもちろんですが、その夫、愛新覚羅溥傑という人物にも大変興味がわきました。そして、始まりは政略結婚であったにせよ、日々の生活の中で育まれ、慈しみあう溥傑と浩夫妻の愛情。子どもたちに恵まれたのち、終戦までの穏やかな家族の日々。

 満州国の解体による夫婦の生き別れ、そして始まった浩と嫮生の1年4か月にも及ぶ中国大陸での流転の日々。まさに事実は小説より奇なり。私はその愛新覚羅浩の数奇な半生の物語にすっかり魅了されてしまい、予習のつもりが、その域をはるかに超えて、『流転の王妃 愛新覚羅溥傑・浩 愛の書簡』(福永嫮生/著、文藝春秋)や『皇弟の昭和史』(舩木繁/著、新潮社)、また、愛新覚羅溥儀の『わが半生』(ちくま文庫)や紫禁城についての書物も読み、果てはDVDでハリウッド映画『ラストエンペラー』まで見るに至りました。

  愛新覚羅家の人々の激動の人生に陶酔してしまった私は、半ばミーハーな気持ちで嫮生さんにお会いできる日を心待ちにしていました。

  しかし実際にお会いした嫮生さんは、「流転」というその激しい言葉からはほど遠く、周りに漂う空気をも優しく涼やかにしてくださるような方でした。

  さて、少し緊張した雰囲気で会食が始まり、みな最初は言葉少なでしたが、時がたつにつれ、嫮生さんのやさしい語りと誰に対しても同じようにお声をかけてくださる心遣いとで、次第に場が和み、徐々に会話が弾んできました。そして、好奇心が抑えきれずにいる私の陳腐で拙い質問のひとつひとつにも真摯に丁寧に答えてくださいました。また、それにまつわるご両親の思い出を淡々と語ってくださいました。

  戦後、中国に抑留されたお父様のことを、遠く離れた日本の地でいつもお母様が案じていらしていたことや、お姉さまの慧生さんが父親に会えるようにと、時の首相周恩来に手紙を書いたというお話。家族の愛があればこそ乗り越えられた試練であったのでしょう。

時代の渦に巻き込まれながらもご両親の愛を感じ、自分自身を信じ、そして今、日本と中国の友好を願う嫮生さん。溥傑がよく口にされたという「時代は変わっても相手を思いやる気持ちがあれば生きていける」ということばを体現されているように感じました。

  しかし、どんな立場であろうと、いつの世も戦争の一番の被害者は子どもたちだということを改めて感じました。

  数年前、嫮生さんから朝顔の種をいただきました。それは植物を愛でることを好まれたご両親が中国大陸で丹精された朝顔の種だということでした。「絵本で子育て」センターの事務局のベランダでは夏になると美しい大輪の花が咲き誇ります。嫮生さんはこの朝顔を「日中友好の懸け橋」だとおしゃっていました。嫮生さんのその思いを胸に、平和な世の中が続くことをこの花を見るにつけ願わずにはいられません。

(だいちょう・さきこ)
                    

前へ ★ 第1回へ
えほん育児日記