絵本のちから 過本の可能性
特別編・1

「絵本フォーラム」40号・2005.05.10
わたしがはじめてであった絵本
〜 first picture book story 〜
宮腰 悦子 (株)エツコワールド代表
 私は「おたのしみ おはなし会」の配達人“おはなしおばさん”をしています。3人の子どもを育てながら、15年間の米国ヒューストンとニューヨークでの活動を含め、30年間、児童文化活動を続けてきました。その日々をちょっと振り返って、@私にとっての本・絵本の世界、A当家の子どもたちにとっての、絵本との出会い――ことば、母国語についての思いを、2回にわたって書かせていただきます。

 私が初めて絵本なるものに出会ったのは、東京で会社勤めをしていた25歳のころ、近くの本屋さんでのことです。目を奪われたのは、今ではだれもが知るブルーナの『ちいさなうさこちゃん(子どもがはじめてであう絵本)』でした。38年前のことです。「え?」と思われそうですので、少し説明しますと――。
 今年は敗戦60年の年。終戦の夏、私は3歳で、私たち一家は神戸空襲で父や家を失い、母1人子ども5人の母子家庭になりました。6年生と4年生の姉たちが家事を担当し、母は小学校の先生として生計を立てることになったので、4歳の兄と3歳の私は“鍵っ子”になりました。食べるものもない、極限に近い時代ですから、絵本など縁のない日々です。まして疎開家族ですから、遊びに使うガラクタさえないのです。空と木と地面をぼんやり眺めて、空想したり思うことが遊びでした。
 座敷の奥に、本箱に収まったいかめしい本があり、その背表紙にはズラリと漢字が並んでいます。ポツポツと教えてもらっては覚え、2人で文字の早当てゲームを考案、熱狂しました。
 4歳になって初めて手にした本は、小学校1年生の教科書でした。当時、教科書は兄弟全員が順繰りに使用するもので、各家庭にも学校にも余分はなかったのですが、私に同情してくださる母の同僚の先生が探し出してくださったということを聞きました。漢字よりやさしいひらがなの羅列の中に別世界があることを発見して、うれしくて朝から晩まで読みました。
 小学校に上がると、勤務を終える母を待つ間、私だけのために図書室を開けておいてくださる先生があって、おかげで思いっきり物語の世界にひたることができました。自分以外にもさまざまな苦労をする人や、いろんな人生があることを知り、未知の世界へのあこがれが強まりました。

 さて、25歳まで絵本とは無縁だった私は、すっかり『うさこちゃん』のとりこになりました。文字でしか知らない世界の外に、絵によって展開される安らかな世界を発見し、まるでマジックのように思えたものです。それ以降はどんどん絵本の世界に没頭するようになるのですが、子どものころの体験は、つらいとき、疲れたとき、本や絵本の慰めを得て、必ず元気になったこと、物語の主人公と一体になり、冒険の旅から帰ってくると、必ず勇気を得ていたこと、今は不幸でも、いつかは幸せになれると未来を信じられたこと……などなど。まるで“人生のお薬”みたいな本や絵本。それによい大人の愛情にさえ恵まれれば、子どもは(人間は)大丈夫、という確信を抱きました。翌年生まれた娘とともに、絵本の世界にすっぽりはまり込み、酔いしれました。

 1975年には、3人の子どもの親になっていて、船橋市内の小さな団地で、友人たちとともに「かしの木文庫」という児童文庫(私設図書館)を始め、毎週末、本や絵本の貸し出しと「おはなし会」を行いました。最初はすばなし、絵本の読みきかせが主流でしたが、その後、紙芝居、パネルシアター、人形劇も加わりました。
 世はまさに核家族化とテレビの普及期に入っており、30歳代の私たちは強い警戒心を抱きました。世代間交流が減少すると、生活の知恵が伝わらなくなる、地域社会の崩壊につながる……、テレビから子どもたちを守らなくちゃ、とんでもない時代が来る……、東京のサラリーマンの夫たちを地域に戻らせなきゃ……とたくさんの課題を抱えてはいましたが、明るく前向きに取り組んでいました。そこは相互教育の場であり、助け合い向上する大人の後ろ姿は、地域の子らにとっても、何にも勝る社会教育であったと、今、断言できます。そして、子育てに手を取られ、思うように動けないと思うときにこそ、活動のエネルギーが噴出するという場面をよく見たものです。

 5年が過ぎ、いよいよと思うときに、夫の都合でヒューストン駐在となりました。小学校4年と2年、3歳の息子を連れ、1978年末に米国に渡りました。そこでは日米双方の人々の歓迎を受け、私も子どもも一言も英語は話せないのですが、生活がスムーズにいったのは、ひたすら児童文化活動を続けることができたということのおかげでした。現地校のPTA祭りでは、日本の子ども文化フェスティバルをさせてもらい、市からも高い評価を受けました。それが市内の学校めぐりにも発展しましたし、週末だけの日本語補習校のPTA会長までさせていただいたのでした。また、1980年には国際人形劇連盟(ウニマ)世界大会がワシントンで開催され、アメリカ人に誘われて参加。後に世界中の人々とのおつき合いが始まるきっかけとなりました。そのときは、1988年の日本大会開催時、書記として働かせていただいたり、その後、潟Gツコ・ワールド設立につながったりしようとは、夢にも思いませんでしたが。

 暖かい日差しと、常に評価を忘れない人々に囲まれて、私は自分の中に眠っていたものを呼び覚まされた気がしました。「子どもはほめて育てよ」母が子育てについて教えてくれた言葉ですが、自分が育てられていることを実感したものです。現実には、生命の危険や病気やと、問題多発の第1回アメリカ生活でしたが、700冊の日本の絵本がいつも私たちを支えてくれました。
 さて、私の絵本体験や活動は、当家の子たちと決して無関係ではありません。次回は子どもたちにとっての絵本との出会い、ことば、母国語についての様子をご紹介させていただきます。

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