絵本のちから 過本の可能性
★特別編★
「絵本フォーラム」28号・2003.05.10

かこ さとし氏 略歴

 1926年福井県生まれ。1973年より東大、都立大、横浜国大等の講師を歴任。児童問題、生活行動論を講義、かたわら絵本・紙芝居・演劇の創作実践と遊び童戯の調査研究。現在、化学・文化・教育綜合研究所主宰。主著に『かわ』『海』『からだの本』『しゃかいの本』『だるまちゃん』シリーズ等多数。
遊びを追求する子どもたち
かこ さとし(作家・評論家)
さまざまなへのへのもへじ
 著名な先生の講義を聞いたり、先達の書を読んだけれど、暗愚の故か一向に子どもというものが解らなかった。若気の至り、遊びの場なら真の姿が得られるだろうととびこんでしまい、気がついたら半世紀がすぎていた。この間得たヒミツの一端を、そっとお伝えする。
 子どもの遊びに「へのへのもへじ」で顔をかくのがある。イタズラ書きと呼ぶ人もいるが、悪戯ではない。さりとて高級な習字や肖像画の練習でもない。遊びである。子どもによっては「へへののもへじ」というのもいる。「何れが正しいか」などと聞くのはヤボで、即座に「そんなの、どっちでもいいんだよ」と子どもはいってくれる筈。
 所が西日本、特に近畿以西に行くと「へのへのもへの」とか「へのへのもへまる」という子に出会う。これはどうしてなのか? どうせ子どもだから、顔の形をかくのに都合がいいよう、口から出まかせなのだろうとホメてはいけない。子どもはそうムヤミに新しい事や都合を合わせたりはしないものである。前途のものはみな約二百年前の子ども達の先祖から伝えられて来たのであって、その点子どもは相当の保守主義である。早い話「への〜じ」の濁点の位置は、頭頂/頭横/ひたい/眉の上/目尻/耳下/鼻下/頬/口下/アゴなどなど、迷走困惑がありありである。そんならいっそ濁点のない「への〜し」とすればと思うのだが、「への〜じ」の5%以下しかない。じっと「への〜じ」をしっかり守っているのである。
 この位で、驚いていてはいけない。愛知県には「への〜と」とかく地域がある。さらに「への〜い・こ・さ・そ・た・ち・つ・ひ・へ・ま・む・も・よ・ろ・ん」とかく子がいる。一体どんな顔になるか試して頂くのも御一興であろう。
 しかもこの段階に止まらず「への〜」が5字、6字のものから8字、9字に至る、百種以上があって、描出の顔面に長髪やヒゲがつき、「これはきれいなオヨメサン」や「どっこいカミサン」に変貌する。
 実はここまでが書籍なら第1部上巻で、子どもの本領は続く第2部下巻の大爆発に向う。上巻で描かれた顔の形に柄がついてウチワ、足が多くはえてタコボウズ、針金ぐるぐるのバネでビックリ箱、傘に弓矢でカカシと、大挙出演したあげく、簡潔迅速に処置すればよいのに出来るだけ長くたっぷり多く時間をかけようと「のり下さい、へい、のり下さい、へい、もっと下さい、へい」という問答展開で顔面を描出し、今はなつかしい丸まげやパーマ髪のオカミサンやサザエさんを登場させ、それから「たてたてヨコヨコ」で両手両足、雨やら波なら「ヨコ棒チョン」で洋服やスカートを飾り、気がつくといつの間にか「しーチャンくーチャン」や「まるチャン」さては「ピエロ」や「チンドンや」の華麗な他の遊び群に融合混和している世界に誘致するのである。

遊びの原動となる3つの条件
 貴重な誌面に、長々とつまらぬ事を述べて来た理由が、ようやく少し見えてきた。「への〜じ」や「〜の」「〜まる」などは、お公家さんや坊さん、さては遊蕩酒脱の士がもてはやした文字絵が始源となり、大人はその完成した図の出来栄えを競ったけれど、子ども達が自分の遊びにすると、たちまちその顔の種類が何十にもふえ、7字から成る歌詞さえ、前記のように多様な種類を生み出して来た。このエネルギーは一体どこから出てきたのだろうか。
 その追求を推進し、原動となる条件が3つある事を、長々と前記した「へのへの遊び」のいきさつは示している。
 第1は子どもが楽しい、面白いと集中できる対象であること。大人とちがって出来上がりを享楽するのではない。それを作り、追求している過程、やっている途中が楽しいのだから、かかわっている時間を出来るだけ長く、たっぷりとろうとするのが第2部の爆発であった。楽しいよと結果だけ鳴物入りではやしても、そんな上べにはだまされない。
 第2はやり方や進め方が子どもの能力範囲であり、材料や場所が子どもの力で及ぶものであること。「へのへの〜」を塀や壁にかいたり、道路にかいてイタズラといわれたのは、そうした場しか与えられなかったからである。
 第3は失敗・錯誤・忘却・失念・混乱などが起ってもよい、何の支障にもならないことである。自力で多様化や、異質なものをうみ出す基盤は、忘れたり、間違った偶然さえ追求のエネルギーに活用するのである。
 こうした三つの条件があるというのは、何のことはない、子どもというものはのびて行こうとしている生き物であるからに他ならない。生きているから失敗もするが、楽しいとなると食事も忘れて追求する。本をかいたり作品をつくる時、こうした追求する子どもを忘れていないかと反省しきりである。

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