絵本・わたしの旅立ち
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絵本・わたしの旅立ち
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「やさしさ」の正体は?
 生れつき指がない子どもから、「ゆび、いつ生えてくるの」とたずねられたり、「この手で、どうしてグー・チョキ・パーができないの」と迫られたとき、親ならば、どう対応できるでしょうか。
 また親じしんに障害があるとき、それに気がついた子どもが「おかあさんの手、お化けの手」といったときのショックを、母親がみずからを、どう処理してよいのでしょう。
 永年のあいだ数多くの人びとが、悲しみ歎いていた苦しみに対し、絵本『さっちゃんのまほうのて』は、それを乗り越える勇気を与えてくれるものとして、私たちは高く評価して一応はかすかながら、胸をなでおろしたものですが、しかし現実の社会は、必ずしも安堵の思いのできるものではなかったのです。

 それはこの絵本の著者のひとりである、野辺明子さんが、絵本を出版したあとで書いた『魔法の手の子どもたち』(太郎次郎社)という本のなかで、痛ましい指摘をしなければならなかったのです。
 障害を持った子どもが、高校生になったとき、地域でゴルフ場建設の話が舞いこんできました。それについては経済的な側面からの問題もありましたが、人びとを驚かせたのは、ゴルフ場の芝生を維持するための殺虫剤が川に流れこみ、その水を飲んだり、魚を食べたりしなければならない不安が拡がったことです。
 地域では勿論反対の意志を強くしたのは当たりまえですが、その反対の理由が、何と、そういう危険な水を飲んだりすると、「障害児や奇形児など、困った子どもが生れる」というものでした。
 障害をもつ子どもたちは、当然強いショックを受け「私は生れていけない困った存在なのか。社会にとって余計者なのか」と歎かざるを得ないことになります。
 高校生になった野辺さんの娘さんは、凡そそういう事態に当面したま正面からその経緯を綴っているのです。
 こういうことは、この地域に限ったことではないでしょう。野辺さんは世間のどんなところでも起こり得ることを示唆してくれます。せっかく絵本で「おおくのさっちゃんたち」に、また社会の人びとに語りかけてくれたこと、その語りかけに感動する一方で、平気でこういうあやまちを繰りかえし拡げている口惜しさが、切々と私たちに訴えてきます。

 つまり本当の意味での「やさしさ」を願うにかかわらず、そういう発言のために人がいかに傷つくかという思いのない私たちの世界。この絵本は、私たちにこの二つの側面を強く教えてくれるのです。 口では「やさしさ」を強調しながら、現実の社会では、どれほど忘れっぽく、また逆な方向へ動きだしているか。
 私たちの絵本が、繰りかえし繰りかえし、人間の「やさしさ」、人と他者との間の「やさしさ」を何よりも熱い思いで描くことが、どれほど大切なことか、このように考えると、野辺さんの提言に今更ながら恥しい思いがつのります。
 しかも「やさしさ」は人間間だけに限らないのです。絵本のなかで活躍する動物たち――けものや虫や魚たちは当然、物語の中で不遇な取り扱いを受けてきた架空の生物――鬼や悪魔や山んばなどにも及ばなければならないでしょう。
 この冬になくなった阪田寛夫という詩人は次のような童謡を書いて、驚かせます。

  鬼ヶ島の鬼の子はやっぱり
  夜ふけに泣くのです―


  こわいよ かあちゃん
  桃太郎がきたよ
  はちまきしめて
  のぼりもたてて
  ガッパガッパ
  海からきたよ


 こういう発想で桃太郎の鬼ヶ島伝説を物語っていきます。この話が、これまでの昔話と基本的にどこが違っているか、本当の意味での「やさしさ」をどのような姿勢で描こうとしているか、具体的に改めて考えてみたいものです。   (この項つづく)

「絵本フォーラム」41号・2005.07.10


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