絵本・わたしの旅立ち
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絵本・わたしの旅立ち
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ホントウに「値打ち」あるもの
 鈴は鳴らさないと鈴ではない。本は読まれないと本ではない―といいますが、やっぱり、ただ読まれるだけでは、不充分なのです。
 いくら、たくさん読んでみても、読んだ甲斐がなければ、単なるヒマつぶしだと非難されても仕方ないでしょう。
 本というものは、読まれることによって、それだけの「値打ち」がなければならないのです。ヒマつぶしで満足できるなら、本よりもテレビを楽しんだり、ゲームとつきあう方が、よほど効果的です。
 絵本の値打ちは、まず、読むまえと、読んだあとでは、いくばくか子どもが成長していなければならないというのが、その入口です。

 たとえば知的には、知識の量がふえたり、年齢によっては、ものごとを解決するために、知的な態度や姿勢が身につくということです。
 赤ちゃんは、知られているようにモノの本に接することによって、これまで身のまわりにあったものが、単に実物のほかに、絵のような実物と違う平面として抽象されたり、色は同じでも、大きさが違うもの―が「全く同じもの」であるという認識する力―人間の文化的な生活の第一歩がはじまるわけです。
 モノの本は勿論、どうぶつ絵本や、あそび絵本、おもちゃ絵本など、すべてこういう成長に役立ちます。
 それから少し大きくなって、登場人物同志が関係を結ぶ―つまりストーリーを楽しむことによって、人の気持がわかるようになりますし、自分のこころを、どのように正確に伝えられるか、という能力が、知らず知らずのうちに、身についていきます。
 そして、もっと対人関係や社会生活が拡がっていくと、人は、さまざまな問題に出合うようになりますから、幼児は幼児なりに不安になったり、頭を痛めたりするでしょう。生活絵本と呼ばれているもの、また、より複雑なストーリーで構成された物語絵本によって、子どもなりに襲いかかってくる問題を解決をしなければならないときに、ステキな力となって、問題解決に役立ってくれます。

 これは、やがて、子どもとして、「人生いかに生くべきか」という人間として、また生活人としての基礎、あるいは基本となる「大切なもの」になるでしょう。
 すこし大袈裟な言い方をしましたが、そういう値打ちのあるもの―これが本に接することが、何よりも大切な理由とされているところです。
 こういう役立つものは、ほかに、いろいろあることでしょう。いや、無数あるといっていいかもしれません。
 しかし一冊の絵本から、その総てを同じように期待するのは勿論欲ばりで不可能です。だから私たちは「値打ち」が少しでも多いものを択ぶことになります。
 そして大切なことは、その「値打ち」の一つに集中させるのではなく、「値打ち」が互いに相犯すことなく、バランスがとれていてほしいと思うのです。

 たとえばテレビなどでは、知識がふえるし、子どもだけでなく大人の気持も、うかがえるようになり、絵本より、もっと効果的であるかも知れませんし、何よりも楽しいテレビ的表現で、結構わたしたちを喜ばせてくれます。
 その点では、テレビも捨てたものではありませんが、しかし致命的な難点は、やはりあまりにも現実ばなれをしていて番組の殆どが、そのときはそれなりに楽しめるものの、子どもたちが実際に当面する現実には、現在にも未来にも、役に立つところがないようです。
 バランスのとれない経験というのは、こういうことで、すぐれた本、ステキな絵本というものは、大方のテレビのように実生活から離れることなくして初めて私たちの糧になるというものです。

 だからこういうことをふまえ、自分で基準をつくって、子どもたちが経験してほしい「バランスのとれた絵本」のリストを作ってみてはいかが。
 そういう仕事こそ、絵本とかかわりを持った、わたしたちだけに与えられた「値打ち」も実もある人生そのものといっていいでしょう。

「絵本フォーラム」38号・2005.01.10


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