絵本・わたしの旅立ち
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絵本・わたしの旅立ち
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子どもたちのニーズが待っている
 絵本を選ぶときには、まず読み手が、深く感動したものでなければならない―といいました。
 つまり読み手が感動した同じ絵本を、聞き手である子どもたちも同じく感動する。いいかえると語り手と聞き手が、同じ一冊の本を楽しみ、楽しみながら共に成長するということだったのです。
 しかし、これだけでは、やはり不充分なのです。というのは、語り手が感動した場合のすべてが、聞き手が感動するわけではないからです。共に理解し、共感し、共に感動するというのは、やっぱり理想的で、なかなか現実では、むつかしいし、原則としては正しいけれど、普通では、そんなにうまくことが運ぶものではありません。
 だから私たちは、一般論として、こういうものこそ、子どもと共に楽しむということだけでなく、子どもたちに興味ぶかい力をもつもの、どんなときにも、誰にも共通する「選び方」の「ものさし」はないか、基準とするものはないか―というのが私たちの当面する問題だと思われます。
 これは大変、ムシのよい要求には違いありませんが、「これなら子どもたちが、確かにとびついてくれる」という一般論なら語ることもできるのではないでしょうか。
 それは波多野完治先生はじめ多くの方々が論じられたように、子どもたちが求める共通のニーズをまず満足させるもの―であることといえるでしょう。
 古いヨーロッパの諺にあるように「馬に水を飲ませようとしても水は飲まない。なぜならのどが乾いていなければ水を飲まないから」、なのです。
 だから子どもたちが、いつ、また誰でもが求めるものを選べば、まず間違いなく子どもたちが、乗りだしてくれる―というものです。

 そんな子どもたちには、いくつものニーズのパターンがありますが、その代表的な、また子どもたちにとって、本来的に重要なニーズの二、三をあげてみると、次のとおりです。
 @子どもたちは、いつも自分の存在を認めてもらいたいと思っている。家庭でも、また幼稚園でも、子どもたちが所属する集団の中で、誰からも忘れられたくないというニーズ。
 こういうニーズに直接かかわるものを、シンデレラ型の物語といっていますが、はじめは「灰かぶり」「まま子」などと家族から差別され、粗末にしかあつかわれないシンデレラが、いろいろ苦労に堪えた末、またシンデレラの存在に哀れみをもった人物の助けを得て、次々にふりかかる苦難はあっても、最後には安定した平安なシアワセな境涯に到達するというタイプのおはなしです。
 一々あげませんが、はじめ疎外されたものが、最後には成功する型の物語が、私たちのまわりに一ぱいあると気がつくでしょう。私たちが、たちどころに気がつくくらい沢山あるということが、子どもたちのニーズの根強さを物語っていることにもなるのです。子どもたちは語られていくうちにシンデレラ型の主人公に、自分がなったような気持ちになり、次々に困難を主人公とともに乗り越えていくわけです。
 A子どもたちは、まわりにはわからないことだらけです。わからないこと、そのことを知らないことは、私たちだって不安でしょう。皆さん方も学校でテストを受けたときのことを思いだして下さい。問題がくばられるまでは胸がドキドキし、提出したあとも、より一そう強く不安が増します。というのは、問題の中味が、また合格、不合格の結果も、わからない、知らないというためです。
 だから、「海の水は、なぜ塩からいか」であるとか、ファンタスティックな、現実と違ったもう一つの世界が、次々にわかって、満足感が得られるというものです。いわば知識欲を充分、満たされるもの、そういうニーズです。
 Bいつも大人たちから「子どもだ、子どもだ」と軽くあしらわれているけれど、自分の能力以上の大きい力を見せて、ひとを「あっ」といわせたい気持ち。
 子どもが登場する子ども向きの物語は、ひょっとすると、すべてこんな仕掛けのある物語だといっていいでしょう。小さい子や、弱い子どもが目を見張ることをする―桃太郎だって、トム・ソーヤだって、アルプスの山の小娘ハイジたちが、なぜ、いつの時代にも、時代が変わっても愛されているか、を思いだして下されば納得がいくでしょう。冒険やチャンバラが入ってくる物語は、すべてこのタイプといってもいいのではないでしょうか。

 いま二、三の例をあげましたが、内容に違いがあるものの、大人も同じ心情や欲求を持っていることに気がつくでしょう。つまりこういうものは大人も子どもも変りない、人間なら誰しも抱いているニーズということになるでしょう。言いかえると、子どもも大人も共に基本的には同じニーズを持っているわけになりますから、読み手が感動したもの、心をゆさぶったものが、子どもたちにも、同じはたらきをするのが当然なのです。
 語り手や、読み手が感動したものを、子どもたちが同じく感動できないのは、読み手や語り手の感動や興味の持ち方によるものであるかもしれませんし、また読み方や読むときの導入、あるいはテクニックに一つの問題があるかも知れません。
 こうして絵本が私たちのものとなる一つの関門をのりこえたわけですが、絵本の世界へ旅だつためには、また絵本と深いつきあいをするためには「ニーズに即している、子どもが求めている」ことなどは、以前から誰もが語ってきたことです。
 ニーズ論の先に待っているもの、それは次の機会に、ご一緒にいろいろ考え、解明してゆきたいものです。

「絵本フォーラム」37号・2004.11.10


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