一日半歩

大人は「育てる思い」を伝えているか?

 人として地域や社会で生きていく上で何が大切かを、子どもたちへ真摯かつ誠実に伝えていく必要があるのではないだろうか。我々大人は、そのためにこそ、もっと時間を使うべきだと思う。では、具体的に何を伝えるか?〈第30号より〉

 運動系の部活動を辞めていく中学生が後を絶たない。多くの場合は練習の厳しさや束縛を嫌っての決断だが、顧問教師からの叱責や体罰にも近い対応がきっかけで不登校になる生徒までいるという。ところが、その退部したはずの生徒が、高校時代には同じ部活動で見事な活躍をしたりする。あるいは、その運動を生涯スポーツとして続けていく場合もあったりする。一方、中学校で顧問教師の期待と指導を一身に受けて大活躍したはずの生徒が、高校では同じ部活動を続けようとは思わなかったり、続けても様々な理由をつけて途中で退部したりする場合も少なくない。これらは、一体なぜだろう?
 「鉄は熱いうちに打て」というが、思春期の子どもの心と身体には、熱くなる時期が人によっていろいろあるように思う。熱くなるまで期待を込めて待ってあげるべき子どももいれば、打つよりもまず熱くすることに力を注いであげるべき子どももいるはずである。一方、熱くても打ち方によっては壊れてしまう子どももいるし、ここぞとばかりに打ち込んで名刀に仕上げたつもりでも、数年後には刃こぼれするがごときの子どももいるのである。

 市内の小学校への読み語りに通う私は、卒業間際の6年生には『からすたろう』(やしまたろう/文・絵、偕成社)という絵本を毎年読んでいる。この本には、「教えるのではなく育てること、育てる思いを伝えること」の大切さが記されている。言い換えれば、「包み込み、支え、信じ、期待し、慈しみ、育てる」という『母性の愛』の大切さである。私は大人の一人として、中学進学直前の6年生にそういう思いを伝えたい。
 思春期は、不安・緊張による依存(幼児性・未熟性)と自立・自律への欲求(自我の目覚め)の狭間で揺れ動く時期であり、自己否定的でありながら自己主張的であったりする。それは、他者との共感意識をはぐくみながら、志に満ちた自分を目指す過程でもある。
 だからこそ思春期には、指針でもあり手本とも言える『教え導く父性の愛』が大切なのはもちろんだが、それでも、それは『包み込み支える母性の愛』の大切さの比ではないように思う。支えられているからこそ、教え導けるのである。教え導いても支えがなければ、心が(時には身体すらも)ついていかないというのが今の子どもたちのような気がする。例えば子どもたちが保健室にたむろしたがるのはなぜだろう。学校では、『自分を包み込み支えてくれる母性の愛』の場を、まさに保健室にしか求められないからではないだろうか。
 思春期の教育は、「教える」ばかりに目が行って、「育てる」をおろそかにしてはいないか? 「教える思い」は、子どもたちに十分すぎるほど伝わっている。しかし、思春期の目標である『他者への共感や自らの志』は、教えただけでは決して生まれてこない。だからこそ私は、「育てる思い」が肌に伝わってくる喜びや幸せを、学校という場で子どもたちに実感してほしいのである。絵本『からすたろう』の最後も、まさにその共感と志で終わっている。

「絵本フォーラム」33号・2004.03.10

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