たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第18号・2001.9
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ガンピーさんになれますか
お父さん、おじさんたちの現在

写真  父親の存在感が希薄になったといわれて久しい。それどころか、汚い代名詞に〈おやじ〉が用いられたり、油断すると〈おやじ狩り〉などといって少年少女らにふくろだたきにあったりする。
 戦前から戦後しばらくのあいだ、父親には権威が備わっていた。父親には家長としての権威があり、父親の言葉は絶対であり反論など許されなかった。しかし、それは、封建的家社会のもとで培われた抑圧的な上位下達の権威であり、決して望ましいものではなかった。
 戦後ばどうなったか、民主主義への変革を標榜し、自由で平等な社会づくりに舵を執りはじめて56年、民主主義の何たるやを国民ひとりびとりがしっかと身につけぬまま、今日に至ったのではないか。一方通行の上意下達のふるまいは否定されたが、秩序を持った自由で平等な社会は実現せず、放縦放任に流れた社会は、勝手気ままで無秩序な社会や家庭を生んでしまったようである。
 一次産業から二次、三次産業への労働者大移動で働く人々の大半がいわゆる〔給料取り(サラリーマン)〕になり、高度成長を担う企業戦士となって〈汗水たらして働く輝かしい親の背中〉を子どもたちに見せることも難しくなった。父親たちは次第に家庭のなかでも自分の役割や居場所がよくわからなくなってしまった。
 人間社会はひとりでは生きられない。欲望のおもむくまま勝手な生き方を個人個人がとりはじめれば、社会も家庭も成り立たない。崩壊するだけだ。大人も子どもも、男も女も人として対等であり、基本的な人権を共有する。この考えを尊重しあい実践するのが民主主義だろう。父親・母親・大人たちは、この民主主義の根本原則を子どもたちに対し身をもって示し、語らなければならない。

 ひとりのすばらしいモデルがいる。ガンピーさんである。ガンピーさんは実在の人物ではない。絵本の主人公だ。(Mr Gumpy's Outing『ガンピーさんのふなあそび』J.Burningham作 みつよしなつや訳、1976)
 この作品はガンピーさんが自分の舟で川に遊ぶ一日のおはなしであるが、ほのぼのとした人柄と品性、毅然とした大人の態度、そして、そのふところのゆたかさに「大人たる者、父親たる者、こうありたい!」とうならせてくれる。
 物語は、舟あそびに興じはじめたガンピーさんに子どもたちや動物たちがつぎつぎに「いっしょにつれてって」「ぼくものせてって」とやってくる。ガンヒーさんは快く応じる。ただ一言だけ約束させる。こどもたちには「けんかさえしなけりゃね」といい、うさぎには「とんだりはねたりしなけりゃね」そして、いぬには「ねこをいじめたりしなけりゃね」となり、こうしには「どしんどしんあるきまわるんじゃないよ」という。
 櫓で漕ぐ小舟に総勢12人(匹)。それぞれの動物たちの特性をリズミカルな言葉にしのばせながら舟遊びはクライマックスを迎える。楽しさに約束をすっかり忘れてしまった子どもや動物たちはそれぞれの特性どおりに大暴れ、みごとに舟は転覆してしまう。「しまった!」という表情を見せる動物や子どもたち。
 その表情にガンピーさんは反省の意を汲んだのか、怒りの言葉ひとつ吐くことなく、にこやかな表情で陸にあがり体をかわかすことを促すのだ。子どもも大人も基本的には対等であること、体験や経験の多い大人は子どもたちにみんなで生きてゆく約束事(秩序)をしっかり示し教える必要があること、天衣無縫・天真爛漫な子どもの特性を理解し、いたずらに怒らず、愛情あるふところに包み込む度量を持ちたいこと、こんなことを大人たちにしみじみと感じさせてくれる大傑作である。子どもたちは、読み聞かせてくれるガンピーさんの世界で、自然と戯れ、多くのともだちと全身いっぱいの幸せを満喫することに触れて抱腹のよろこびを受け取るはずだ。なにしろ、言葉以上にソフトで広がりのあるすばらしい絵画空間がひとりでに語り始める絵本でもあるのだ。
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