たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第45号・2006.03.10
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墨一色で広がる子どもの空想体験

『もりのなか』

写真  縁側で日向ぼっこに身を委ねているうちに睡魔の誘いを受けて瞼は重くなり、うつろいながらコックリと…。こんなとき決まって痛快な空想に誘われることになる。かつて家族と訪ねた海では鯨やイルカと友達のように戯れたり、海上高く飛び跳ねることができる自分がいる。現代っ子なら大空をぐんぐん突き抜けて宇宙に向かう自分を空想するかもしれない。誰でも児童期にこんな空想体験をしたことがあるのではないだろうか。

 空想とは、現実にはあり得るはずのないことをいろいろと思いめぐらすことで、創造的想像の一種とされ、心像の流れがそのときの快感に統御されるものだという(『広辞苑』)。語義からしてもずいぶんとハッピーで肯定的な心の想いであると思う。欧米で語られるファンタジーと同義のようだが幼児期・学童期の空想はいま少し素朴なものと捉えてみようと思う。

 エッツの描く『もりのなか』(マリー・ホール・エッツ作)は一九四四年の作品で六〇年以上も読み継がれる。墨一色で描ききり頁一枚の絵をほぼ同サイズで淡々と配置するシンプルな構成の傑作は決して奇をてらわない。見ようによっては地味にさえ写る。だが、この構成こそが空想・幻想の世界を見事に創造想像しているのではないか。作品は、児童読者ひとりびとりの視線をしっかと掴み釘付けにする力を持つ。

 物語に登場するのは、「ぼく」と動物たちに「ぼく」のおとうさん。物語はすべて「ぼく」の一人称で語られる。「ぼく」は、紙の帽子をかぶりラッパを持って森へ散歩に出かける。おそらく、「ぼく」は何度もこの森を散策しており、閑かな森になにかしらの想いや思いを日常抱いている。で、「ぼく」は、それらの想いを素朴に空想世界に昇華させる。

 「ぼく」の吹くラッパの音でライオンが目をさまし、「…ぼくもついていって いいかい?」と散歩についてくる。象の子どもや二匹の熊、カンガルー親子に年寄りコウノトリ、小猿たちも「ぼく」の散歩に続々つづく。みんなは「ぼく」の吹くラッパに合わせてそれぞれ咆え・呻り、太鼓を叩き、くちばしを鳴らす。森の音楽隊の趣である。ひとしきり行進すると一休み。ピーナツやアイス、ジャムにお菓子となかなかの馳走で即席パーティ。

 さぁ、一息つくとわんぱく万歳・遊びの王国のはじまりとなる。ハンカチ落としにロンドン橋、かくれんぼうと広い森を舞台に駆け回る。結末は、鬼になった「ぼく」が目を開けると動物たちはすっかり消えて、そこにいたのは「ぼく」のお父さん。で、ぼくは、お父さんの肩車で家に無事帰還というおはなし。
 「ぼく」は、素朴で健康快活な少年にちがいないと読んでいる。一人ぼっちだとしても空想を抱ける豊かさを持った少年だろう。
 現実を前にして夢も希望も語らない児童の出現がみられるのが現在。空想など抱けずに妄想に捕らわれて苦しむ子どもたちもいるとされる。子どもたちには空想体験豊かにそだって欲しいと望む。

 ところで、『もりのなか』の「ぼく」は、散歩の仲間にこわがりやのウサギを招き入れている。このウサギは「ぼく」について行くが、ラッパに合わせて声を出さず、かくれんぼうでもうまく遊びの輪に入れない。
 うっかりすると見落としがちなウサギの存在を児童はどのように読み取るだろうか。ウサギを招いた「ぼく」、容易に輪の中には入れないけれど、みんなと一緒に楽しみたいウサギ。
 ウサギの存在は成人読者に一考を促しているのかも知れない。作品誕生の背景に癌に侵された配偶者と森を眼前にして共に過ごした作者がいる。天真爛漫な子どもと自然の豊かさを讃え喜び、それを静かに見守る大人の位置の取り方に作者の配意があるのだろうか。
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