たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第41号・2005.07.10
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明快シンプルな展開の物語は記憶の貯金箱にストンと…。

『三びきのやぎのがらがらどん』

写真  唄の文句ではないが、“よくある話”というのがある。落語・漫才の出し物でも、何時であったか、何処であったか、かつて幾度となく見たり聞いたりした寸話が織り込まれると「なるほど、そう、そう、そうなんだよね」と、相槌を打つ話である。
 そこで、話にすっかり嵌りこみ笑いや拍手で応える。各人の持つ“よくある話”と話者の語りが共鳴振幅して話を双方向で盛り上げるのだ。

 御伽噺や昔話・民話の場合も同じことが言えるだろう。自然や民俗・習慣が相当に違う各地で伝承される説話の類は舞台装置を異にするが、浦島太郎伝説のように類似の物語があちこちで採話されている。昔話・民話は多種多彩。勧善懲悪話、頓知や機転を利かす物語、辛酸苦労の末に幸いを掴む話、怠慢不真面目を諭す教条話もある。
 そんな話には、神や悪魔にお化け・怪物などがよく登場する。ぼくらは、生涯で必ず自然の凄みや怖さに対峙し、厄介な難題にぶつかり、縺れる人間関係に遭遇する。神や悪魔はこれらを擬態化・擬人化したものだろう。そして、先人たちが経験蓄積した生き方の知恵(正義や勇気や頓知など)が“よくある話”として万人に通低する物語に創造され作者不詳で伝承されてきたのが昔話や民話となるのだろうか。
 だが、“よくある話”といっても、そんな話を見聞したことのない人々にとって、そんな話など鼻から存在しない。幼児・児童期からしばしば触れてきた子どもは“よくある話”の蓄積を持つが、そうでない子どもは、“よくある話”を知らない。知らなくて育つ子どもたちはどうなるのか。
 複雑な人間模様、情報輻輳する現代社会のなかで頻出する犯罪のなかに先人の伝えてきたはずの“よくある話”の不存在が見られ「そんな誰でも分かりそうな馬鹿なことを」と地団太踏むケースを知る。伝承説話を両親・祖父母から語られ・聞き知る子どもが少なくなったことに因果関係を求めるのは酷なことだろうか。

 実際、永く伝承され続ける話は明快でリズム感を持ち、口に出して読むと爽快感の残るものが多い。北欧ノルウェー民話の傑作『三びきのやぎのがらがらどん』もそのひとつでマーシャ・ブラウンが1957年に絵本化している。起承転結のはっきりした単純明快なショート・ストーリーで、子どもなら一度聞くと、記憶の貯金箱にストンと物語まるごと仕舞いこむのではないか。民話絵本構成の典型的な作品だと思う。
 主人公は、大・中・小の三匹のやぎ、名はみな同じで「がらがらどん」。ある時、三匹は草を食むために草場のある山へ登ることをと企てる。ところが厄介な関門がひと。橋下に巨大な魔物(トロル)の棲む丸木橋を渡らなければならないのだ。ぐりぐり目玉に突き出た大きな鼻を持つ魔物の顔は不気味で怖い。この橋渡りに三匹のやぎは知恵をめぐらせる。
 頑健でトロルと充分に対決可能な大やぎが最後に渡ることにして、小やぎと中やぎは難を言葉で逃れる作戦を執る。作戦はまんまと成功する。はじめに小やぎが橋を渡りにかかる。案の定、魔物が「きさまをひとのみにしてやろう」と現われる。小やぎは「どうか たべないでください」といい、「すこし まてば、二ばんめやぎの がらがらどんが やってきます。ぼくより ずっと おおきいですよ」と続ける。トロルは「そんなら とっとと いってしまえ」という。中やぎが続く。ここでも同じ問答を展開し大やぎに繋ぐ。最後の大やぎは二本の角と硬い蹄で立ち向かいトロルを谷川に突き落とす、という按配。山に登った三びきは草を食べてまるまる肥りました、というおはなし。
 繰り返される三びきのやぎとトロルとの問答が楽しい。大やぎとトロルの闘う場面に子どもたちは手に汗握る思いを持つだろう。起承転結にメリハリを利かせた物語の運びも鮮やかである。絵本化を成功させたマーシャ・ブラウンの描くイラストの冴えも見逃せない。三びきのやぎの個性を見事に描き分け、トロルと対決する三様のシャープな線描に怖さと迫力に加えて読者をワクワクさせる動きが与えられている。
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