たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第37号・2004.11.10
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双方向の音読を楽しみながら心と体を育てられないか

『きょだいな きょだいな』

写真  斎藤孝さんの一連の「声に出して読みたい日本語…」がブレークしてから久しい。かつて十年毎に訪れるとされた日本語ブームと異なり読者の根強い支持が続く。
 ぼくの少年時代、もう五十年も四十五年も前になるのだが、小・中学校でよく音読をさせられた。指名されたり、自ら挙手して読み上げたり。集団での群読もあった。
 音読は習慣化し家でも教科書を音読、試験前となると兄弟で暗誦合戦するほど声を出した。音読に耽った後に爽やかな快感が残ったこと、時に襲う頭や胸中に淀む重しのようなものも音読が取り去ってくれたことなどを「声に出して…」ブームのなかで想起する。音読・朗誦から暗誦は幾らかの自信も与えてくれたのだから、それらの効果が学習にも健康にも及ぶことに、ぼくは納得する。斎藤孝さんは身体論の視点から語るが、名文や名句を朗誦することで、そのリズムやテンポの良さを身体に染み込ませ、音読者に活力を与えるばかりか、心の力まで鍛えてくれるという。
 それでは、子どもたちへの「読み聞かせ」(音読)活動はどうだろうか。この場合、聞き手がいる。読み手は何がしかの音読効果を得るに違いない。聞き手の子どもはどうだろうか。多くの読み聞かせ実践例を読むと成功事例ばかりで些か首を傾げてしまう。ぼく自身も若干の読み聞かせ体験を重ねるが、相手(幼児・児童)は強かで、すんなりと聞き手になってくれないことの方が多い(それでも子どもはちゃんと聞いてくれていると言われるが)。
 大人とこども、双方向で音読できるとするなら、どんなにか素晴らしいことではないか。
 絵本に双方向の音読・群読を可能にしてくれそうな本がある。『きょだいな きょだいな』(長谷川摂子=作、降矢なな=絵、福音館書店)だ。もちろん、まだ文字を知らない子どもたちが相手だから幾度かは大人が読み聞かせることが必要だろう。しかし、この絵本のダイナミズムはグイグイッと子どもの耳目を捉えてゆき、暗誦の力を活かして聞き手から語り手に挑もうとする子どもたちを生み出すのではないか。
 物語は、子ギツネが何者かの巨大な脚を前に訝りながら興味を示す表紙画面から動く。扉から本文に転じれば子ギツネが天を仰ぐほどに巨大なピアノがドーンと現れる。表紙の脚はピアノの脚だった。その迫力をテキストの口上言葉が小気味よく煽り、心地よいリズムを響かせる。

あったとさ あったとさ/ひろい のっぱら どまんなか/
きょだいな ピアノが あったとさ

 ページをめくると言葉はさらに合唱のように豊かな広がりを見せる。

こどもが 100にん やってきて/ピアノの うえで おにごっこ/
キラリラ グヮーン/コキー ン ゴガーン

 広がる草原を舞台背景に、紙面からはみでるほど巨大なピアノが描かれ、その上を思いの丈、飛び跳ね回る子どもたち。子どもたちの跳ね回る鍵盤から奏でられる大音声が今にも聞こえてきそうな迫力である。こんな調子で、巨大な石鹸や電話、ガラス壜などが登場して大勢(テキストでは100人)の子どもたちが紙面いっぱいダイナミックに活躍する。ごろんと転がり始めたトイレットペーパーを追ってみんなでお尻を拭くという滑稽話あり、巨大桃から無数の桃太郎が飛び出す話あり荒唐無稽の面白さがリズミカルに展開する。とどめは扇風機で飛ばされた子どもたちがそれぞれの母親父親の胸に飛び込んでゆくほのぼの明快ストーリー。いずれの場面にも子ギツネが"かくれんぼ遊び"のようにそっと忍んでいるのを、読者としての子どもは決して見逃さないはずだ。
 「あったとさ あったとさ」に代表される繰り返し言葉や、調子・リズムを同じくするフレーズの運びは、幾度か読み語るうちに子どもたち自信の口から音となり双方向の音読が可能になるのではないか。複数の子どもたちと一緒に読めば群読も成立するだろう。
 そんな醍醐味を充分に味わえる逸品だと思う。
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