たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第29号・2003.7.10
18

アメリカ人も、ぼくらと同じように
普通の暮らしを望んでいる。

『にぐるまひいて』の描くアメリカ人

写真  唯一の超大国・アメリカ。ブッシュ率いるアメリカの強権の前には国連も国際的約束事も無力のようだ。そのアメリカとわが日本は直接間接に深く関わる。まるで従属国のように…。色濃くぼくらの生活に影響を与えるアメリカだが、日本人の対米感情は一様ではない。親米に嫌米、好戦的なアメリカと捉えると反米だ。だが、この感情は微妙に揺れる。反米を唱えながらアメリカ好きという矛盾する対米感情を抱く日本人も少なくないのである。
 建国2世紀足らずで世界一の大国となり、民主主義の実験場として範を示しながら先住民や黒人に差別策を執る。どこかに乱あれば世界の警察として軍事行動を起こすのもアメリカだ。なぜ?と自問しながらもアメリカの全体像はどうにも掴めない。そこにアメリカの魅力の根元がある、という人々もいるが果たしてそうか。しかし、そんなアメリカでも国民のひとりびとりは、ぼくらと同じように毎日の暮らしを普通に粛々と送り続けているはずだ。世界の人々の多くは普通に平和に日々を重ねるすばらしさをきっと知っているはずだから…。
 普通に生きるアメリカ人のすばらしさを、詩情ゆたかに語るのが『にぐるまひいて』(D・ホール作/B・クーニー絵/もきかずこ訳/ほるぷ出版)である。舞台は19世紀初頭のニューイングランド州の山村。この山村に住む4人家族の小さな物語は、古き良き時代の原風景をしみじみと謳う。
 物語は作物の収穫期・秋から始まる。牛に荷車を担わせ農夫(お父さん)と彼の家族は一年をかけて彼らが作り育てた作物の品々を荷車に積み込む。ウールは春に羊から刈り取り妻が糸車で毛糸に紡いだ。妻はこの毛糸でショウルを編み、娘は5組の手袋を手で編んだ。家族みんなで造ったキャンドルもある。そして、彼は牛車を牽き10日間のポーツマスへの旅へ。ポーツマスは産業革命期を迎えて繊維工業の市場としてにぎわいを見せる街だ。彼は丘を越え、谷を過ぎゆき河を巡る。農園や村々を通り抜け市場まで旅はつづく。彼は市場で積み込んだ品々を売る。荷車も牛も売る。つぎは家族の一年の暮らしに必要な品々の買出しだ。やかんに縫い針、木細工用ナイフ。1キロのペパーミント・キャンディも買う。
 そして、農夫はポーツマスへの道をそっくり逆になぞり家路に着く。冬を迎えて娘は縫い針で手編みを始め息子はナイフで木を削る。夕には家族みんなで新しいやかんの料理を囲む。春になると樹液を搾り砂糖づくり。羊毛を刈り毛糸に紡ぎ、妻がショウルに編み込むのも例年のこと。野菜を植え、ガチョウたちが雲のように柔らかい羽毛を落とし始めると夏が来る。そしてふたたび秋が巡りくる。広大で牧歌的な農山村の生活が普通に淡々と繰り返される。そんなアメリカの秋冬春夏の一年のなりわいが詩情豊かに流れてゆく。
 物語は、詩人ホールが従兄から聞き取った話を素材にする。従兄は少年時、老人からこの話を聞き、老人もまた彼の少年時、当時の老人から聞いた。つまり、口承実話とでもいった物語。ホールはそれをわずかに頭韻を踏む散文詩で謳いあげた。何度も音唱すれば、物語はひとりでに口をつき、素語りの格好の物語となるではないか。かつて、ぼくの祖母が語ってくれた昔話はすべて素語りだった。ホールは自作の詩をよく朗読して回ったという。彼は読者に朗読・素語りを愉しんで欲しかったのではないか。絵を担当したバーバラ・クーニーは1917年生まれ。彼女の祖父母時代のニューイングランドの情趣やポーツマスの活気ある雰囲気を描出するために板画として作画した。その色彩や質感を見て欲しい。筆舌できない時代の感性が胸にズンと届くはずだ。
 ホールとクーニーが四つに組み生み出した快心の傑作は、当然のようにコールドコット賞ゴールドメダルを獲得した。
前へ次へ