たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第24号・2002.9.10
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お母さん、キライ…だけど、ダイスキ。
ふしぎなふしぎな“胸の煙”
『ぼく おかあさんのこと…』

写真  人が人たる所以、のひとつに“胸の煙”がある。“胸中に思いを抱く”という性情である。特別・格別の思いを胸中に納めて顔にも声にも決して出さない。胸三寸にそれを納めおく。ときにこの性情は美徳、とされたりする。
 それは、高僧や教師たちの弟子や生徒らに対する処しかたであったり、片想いの相手に思いを語ることなく妙につっけんどんに接してしまう若者のふるまいに形を変えたりする。ふところの広さを敬われる大人(たいじん)は“胸の煙”を運用する達人といえるかもしれない。以心伝心の極意を極めているという人がいるのなら、そんな人びとを大人と呼ぶのではないか。
 だが、この性情には、徳もあれば毒もある。
 生長過程で幾たびか訪れる子どもたちの反抗期。この時期の子どもたちはろくろく口も利かずに親に難癖をつける。かれらは、不都合な“胸の煙”を語る術を持てないことで鬱憤の捌け口を親に向けているのだろう。同じように、引っこみがちで内気な気質のために思うように物言えない人びとは、徳とされる“胸の煙”以上に穏やかでない“胸の煙”をたくさん貯めこむ。発散の機会をうまく創らなければ、かれらは、深刻なストレス障害を惹起してしまうだろう。
 幼児や児童も、当然のように“胸の煙”を持つ。ただ、子どもたちの関わる親子・兄弟、狭隘な生活社会、そして、家庭中心の健常な暮らしのなかに育つ子どもたちの“胸の煙”は、大人社会のそれと相当に隔たりがある。
 幼児・児童が持ち合わせている通念は、ときに滑稽さをともなったり愉快で破天荒な発言や行動をひきおこす。だからといって、かれらの言辞や行動はすぐれて真摯で真っ正直だ。そして、心底には筆舌できないほどの希望や愛の表現を“胸の煙”に忍ばせているのである。
 絵本『ぼく おかあさんのこと…』(酒井駒子作 文渓堂 2000年)は、幼児の声に出して言えない思いを、うさぎのぼうやの表情描出や遠近法を用いた特異な画面構成で表現するのに成功している。メルヘン仕立てなのに、ぼうやの“胸の煙”をたくみに描き出しているのだ。さらに、ぼうやが発する心中に抱く言葉を無駄なく簡潔に運び、ずんと胸に響かせるのがいい。
 主人公はうさぎの母子。ぼうやのお母さんは、ずぼらで、なまけもので、おこりっぽくて、おなかをすかせてもごはんを用意してくれない。テレビだってぼうやの見たい番組を見せてくれずに自分のすきなドラマばかり見てる…。それから、それから…、ぼくとはケッコンできないっていうし…。
 こんなお母さん、何処にでもいるだろう。生真面目一方、品行方正でスキのない人なんてそれこそ希れな存在で、かえって鬱陶しいのではないか。ぼうやのお母さん、少しずぼらに過ぎるが、まぁ普通のお母さん像といっていい。
 こんなお母さんをぼうやは、「…だから、キライ」「キライ。もう こんなおかあさん おわかれしよう」「サヨナラ おかあさん!」と心中で語り、バタンとドアを閉めて出てゆくのである。
 故意か作意か、ぼうやは大好きなボールを持たぬまま。この場面設定に作者は心を砕いたにちがいない。実にこころにくい効果を出しているのだ。案の定、ぼうやはこのボールを取りに帰る。そこでのおかあさんとの応酬会話がこの絵本のクライマックスとなる。
 「あのね。おかあさん」
 「なぁに?」
 「ぼくと またあえて うれしい?」
そして、「うれしいとも」のおかあさんの声を聞く間もなく母の胸にぼうやは飛び込んでゆくのだ。
 母と子、子と母。血脈通じる愛情とは決して教科書的ではないのである。
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