えほん育児日記

えほん育児日記   えほん育児日記

~絵本フォーラム第91号(2013年11.10)より~  ●3●

 

 温かく優しい微笑で、お子さんのことを語られる嫮生さん。遠く懐かしい眼差しで、ご両親やご主人の思い出を語られる嫮生さん。今、嫮生さんの胸には、どのような思いが去来しているのでしょうか。前号に続き嫮生さんのお話をお聞きいたします。

 思考の核となる父母の姿勢

———— 愛新覚羅溥儀の実弟であるお父様、溥傑さんは、私達には歴史上の人物ですが、ご家庭ではどのような方でいらっしゃいましたか。
 お目にかかった方を終生大事にしておりまして、この広い世の中でご縁があってお会いした方とは、心を込めてお付き合いをし、そして家庭・家族を大事にしておりました。父が中国の病院に入院しておりました時に、病室の前に「心配でたまらなくて、東北から2日間かけて列車で来ました」という3人の若い兵隊さんがいました。父とは一度会ったことがあるようでした。
 ———— お父様が、一度しか会ったことのない方の、心にも残る接し方をなさっていたことが分かるお話でございます。
 また士官学校の同室の方のお話だと、ゲートルを短時間で巻くのは難しく、父は、手間取っていたようですが、人より早く起きて巻いて集合時間に合わせて、他の方に迷惑がかからないように努めていたようです。軍隊という所は、一人が遅いと全員叩かれるのです。父は前半生、ソビエトで5年間の抑留生活を、撫順でも10年間の管理所生活をしております。晩年、「一日の終わりに床に入る前に、今日一日をどのように過ごしたかを必ず反省して休んでいる」「反省の無い人間は進歩、前進がないから」とこの一言は父が私に言い残したことでございます。成る程、と得ることが多くございました。
 ———— ご自分に厳しいお父様のお姿でございますね。お母様の浩さんはどのような方でいらっしゃいましたか。
 責任感の非常に強い人でしたので、母は自分が置かれている立場等を大事に考える人でございました。流転の日々を共にしました愛新覚羅婉容皇后は、アヘン中毒でご自分の身の回りのことがお出来になれず、また誰もお世話をしたがらなかったので、母がお世話をさせていただいておりました。母は自分が嫁いだ先の方だから、自分が最後までお世話をするのが使命だと考えていたのだと思います。兵隊さんには、いつも感謝をしておりました。兵隊さん達が私を可愛がってくださったからだと思います。大人の母は、外出が許されなかったのですが、子どもの私を、外に連れ出してくれたのです。常日頃、母は有り難いと思って感謝の気持ちを持っておりました。
 ———— 身分の上下でなく、人としての関係を大切になさっていらしたのですね。嫮生さんは、福永家に嫁がれて、家庭を築かれました。ご主人はどのような方でいらしたのでしょうか。
 とてもユーモアがあって人望がございました。お葬式の時(2007年1月2日67歳 永眠)、とてもたくさんの方にいらしていただきました。人というのは、亡くなった時にそれまでの生き方が分かるような気が致します。どれだけの方が嘆いて惜しんでくださるか。亡くなって初めて分かるものだと思っております。

 命あればこそ

———— 嫮生さんのお話は、家族の在り方や心の持ち方等を考える良いお手本になると思います。
 やはり夫婦というのは、生まれも育ちも各々違いますから、結婚してもすぐにピッタリと上手くいくとは限りません。お互いに努力しながら育んでいくものだと思います。あまり高望みをせず要求をせずに、愛情とか情愛はその人が好きでその人の為に捧げるという気持ちでいれば、そんなに簡単に別れることもなくなるのだと思います。あまり要求ばかり利己的にするのではなくて、その人のために愛情を捧げる、あげるという気持ちでお互いが尽くしていければ、上手くいくのではと思います。
 ———— 捧げる。見返りを期待しないで。
 はい、期待しないで。あげるという気持ちで尽くしていければ。「帰りが遅い」とか「お休みの日にどこかへ連れて行って下さい」と言うような要求ばかりしていたら上手く行かないものです(笑い)。男の方は、外に7人の敵があって、一生懸命家族のために頑張っているのですから。飲んで遅くても、それは、人間関係が上手くいくように、お酒が好きでなくてもお付き合いで遅いのかもしれないので、それを責めたら可哀想です。相手に何か言う時も、相手の気持ちを考えて言わないと伝わらないでしょう。結婚した子どもにはそう言っているのです。そして、母は「どんなに親しい夫婦でも最後まで女としての恥じらいを忘れないように」と私に教えてくれました。母は、ゴミを捨てに行く時も口紅は必ず付けて出ておりました。「どなたに会うか、分からないから」と申しまして、「口紅くらいは付けてゴミ捨てに行きなさいね」と身だしなみを教えてくれました。今、パジャマ姿でゴミ捨てに行かれる方がいらっしゃいますから(笑い)。
 ———— 今、恥じらいが消えている世の中でございますので(笑い)。本当にちょっとした気持ちの持ち方でございますね。ご本に「生前から父はよく申しておりました。『モノに執着してはいけない。モノは生きているときのお客様。困っている人がいたら、差し上げなさい。広い世間で、ご縁があってお目にかかった方を大切にしなさい。生きているうちに他人様のお役に立つことができれば、生きていた甲斐がある』と」(注1)とお父様のおことばがありました。
 「私利私欲を失くして」と父はよくそれを申しておりましたし、父もそうでございました。父は出自ではなく、その人生を自分で努力したことが良かったから、今の中国でも大事にされているのだと思います。私利私欲の全くない誠実な人でございました。「ほんの少しのものでも、皆で分け合って食べよう」といつも申しておりました。満州時代に軍隊の車を父がお借りして、外で食事をするときも運転手さんを外で待たせるのではなく「一緒に食べよう」と言って連れて入って共に食べておりました。父や母にはいつも喜びや楽しみを分かち合いたいという思いがあったようでございます。だから、どんな時代になっても慕ってくださって、亡くなった今でも、お知り合いだった方やその奥様や子どもさんが父の命日や誕生日に「お供え下さい」と果物等を贈って下さるのです。お供えをした後、子どもや孫と一緒に「有り難いこと」と感謝しながらいただいております。
 ———— 心や思い、行いは残っていくのでございますね。
 そうみたいですね。父と母が愛でた朝顔。母が亡くなった後、7年間、父が大切に水をあげて花を咲かせ種を採っておりました。その種が日中友好の朝顔の種として広がっております。種を手渡された方々は皆様喜んで大切に育てて下さっています。お隣同士の近い国です。2000年の文化交流があって、友好を深めてきた国同士でございます。昔の方々の苦労を忘れること無く自然に交流の輪を広めていってもらえればと思います。
 ———— お母様が詠まれたお歌
ふた国の 永久のむすびの かすがいに なりてはてたき 我がいのちかな
ご両親様の思いが込められた朝顔の種が、ふた国の架け橋となって広がって、つながっているのでございますね。嫮生さんは、「生きてこそ、です」とよくお話をなさいます。それは、1年半の辛い流転の日々があってのおことばなのでしょうか。
 命あればこそ、生きてこそ。今、この世の中に生かせていただいていることをしみじみ有り難く思っております。兵隊さんが私の身体に覆い被さって敵の銃弾から守って下さった命です。だからご恩に報いるために粗末にしないで寿命まで生きていきたいと思っております。対談や講演での臨時収入はアフリカの子どもたちの命が一人でも多く助かることを願って、ユニセフに寄付をさせていただいております。ご縁があって今、この地球上で共に生きているのですから、せっかく生まれた命ですから、一本のワクチンで助かるならお手伝いをしたいと思っております。父と母の顔に泥を塗らないように一生懸命に努めていきたいと思っております。

 嫮生さんの眼差しの先には、ご両親と過ごされた北京の庭や、ご主人と歩かれた須磨の海岸が広がっているのでしょうか。嫮生さんのお話から、何気ない日々の営みに心をかけることの大切さを改めて気づかされました。
 駅のホームで、嫮生さんと私の前をゆっくりと足を運ばれる老婦人がいらっしゃいました。嫮生さんは、「先に行くのは失礼だから」としばらくご婦人の後を歩かれました。ホームの柱の横を彼女が通りすぎるとき、嫮生さんも柱の裏から足早にご婦人を追い越されました。人を追い越すことが日常当たり前のような今、追い越される方の気持ち、追い越す者の気持ちを省みた瞬間でした。この時のことは、今も私の心に鮮やかに残っています。
 人にも物にも心をかけること。自分の気持ちを押し付けること無く、唯、今、共にあることを感謝して生きること。出会えたご縁をたいせつに、気持ち良く、清々しく心を込めてお付き合いをすること。悲しみや苦しみを奥深く受け入れて、静かに穏やかに、そして凛とした嫮生さんの生き方の向こうに、中国と日本の多くの方々の姿が重なりました。
 私たちの後ろ姿を子どもたちは見ています。何をたいせつに生きていくのか。何を伝えていきたいのか。私たちの生き方が問われます。                                      

 厳しい暑さの今夏、日中友好の朝顔が咲きました。嫮生さんとのご縁から、我が家で咲いた白い縁取りの赤い朝顔の花。この花にどれだけの方々の思いが込められているのか、と万感の思いで愛(め)でました。ふた国の友好を願って種を蒔き続けたいと思います。
 嫮生さんのご多幸をお祈りしながら、嫮生さんのおことばを最後に記してこの対談を終えたいと思います。
 「『目には見えないものに包まれ、守られ生かされていることに、日々感謝し、今を生きる』(中略)『静かに行くものは、健やかに行く。健やかに行くものは、遠くまで行く』と申します。静かな心で、正しく歩み続けていれば、幸せはきっと訪れる――そう信じております」(注2)
                    (ないとう・なおこ)

(注1)『流転の子 最後の皇女・愛新覚羅嫮生』(本岡典子/著、中央公論新社)413ページ。
(注2)同424ページ


前へ ★ 第1回へ次へ


えほん育児日記