えほん育児日記
〜絵本フォーラム第86号(2013年01.10)より〜

絵本の力を信じて

宮原 美奈(絵本講師)

 「おばあちゃん、ほらっ……」。目の前にはたった今祖母が入れてくれたお茶があります。私は、両手で包んだ湯呑み茶碗をそっと差し出しました。中には茶柱が立っています。以前、茶柱のことを教えてくれたのは祖母でした。小さな私は嬉しくて、祖母に目で伝えると祖母の目も笑っていました。ふたりで一緒に微笑みました。
  それからは茶柱が立つ度に、どんないいことがあるのだろうと楽しみにしていました。大人になった今でも亡き祖母とのこうした思い出が、茶柱がくれたいいこととして私の中には深く残っています。
 いいことの中には、こんなこともありました。妹とおつかいに出掛けた時、大きな野良犬に会いました。怖くて走り出したくなりましたが、なんとか急ぎ足で店まで行くことが出来たこと。「帰りはどうか会いませんように」。そう願うと会わずに済んだこと。無事妹と一緒に家に帰ることが出来たこと。何気ない日常の何でもない一こま一こまですが、私は折々にそれを引き出しては現在に繋げてみることがあります。
 時代は変わり、野良犬に会うこともなくなりました。しかし今、被災地、福島ではどうでしょうか……。そこにはどんな光景があるのでしょうか。子ども達を囲む環境も私たちが暮らす社会も大きく変容しています。私たち大人の罪深さを感ぜずにはいられません。

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 今、荒野と化した混迷社会には、何を頼みに生きてよいのか悩み苦しみ、悲しみに悶える人々が大勢おり、社会は憂いと嘆きが満ちています。私たちは今、いったいどこへ向かおうとしているのでしょうか。行く先には何があるのでしょうか。病む心と冥き道を照らし導くものはあるのでしょうか。あるとすればそれはいったい何なのでしょうか。皆さんなら、どのようにお考えになりますか。
 私はそれが『絵本』にあると考えます。厳密には絵本にもあると考えます。『絵本』だからこそ伝えられる「何か」があります。伝わる何か。心から絵本を読む時、見えてくるもの、感じられるもの。絵本の中にある大切な理、普遍、真実、愛、どうぞ、お手にとり読んでふれてみてください。きっとまた何か見つかったりついてくるものがあるでしょう。

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 子どもの頃、掘りごたつや火鉢を囲み祖父母の物語りに耳を傾けました。語らい、団欒、ふれあい。それは生活に根づいたもので、その土地や暮らしにまつわる話し、民話や言い伝えのようなものでした。例えば、裏山は今でこそおとなしいが、かつては活火山で幾度もの災害をもたらしてきたこと。近くの沼に浮かぶ火の玉の話し。(私はこれがこわくて恐くて仕方がありませんでした)。
 お天道様や火、水の神様、石の神様の話し。山で命を落とした人々の話しや、家の守り神でもある蛇や蜘蛛、やもりの話し。ある夏の日、私は縁の下にそれはそれは美しい青大将が入ってゆくのを見て、思わず息を呑みました。その時のことは今でも忘れられません。九州一の暴れ川、筑紫次郎こと筑後川にちなんだ話しと語ってくれた人の眼差し。祖父と黙って見つめた川波や川面のきらめきが声やぬくもりと共に蘇ります。まるで歳時記のように四季折々、懐かしく浮かび上がる感覚、記憶、感触。おそらく皆さんの中にも数多くおありかと思います。

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 繰り返される天変地異、幾多の戦乱、飢餓飢饉に疫病。混乱の世を生き抜いてきた我々の祖先・先人が私たち後世に伝えたかったこと、残したかったことは何でしょうか。我々人間が、祈り、願い、希求し続けてきたものはいったい何でしょうか。
 絵本には、私たちに時空を超えて語りかけてくる「ちから」があります。人種も国境も宗教も超え遥か彼方、宇宙までも繋ぎ、過去・現在・未来をも結ぶ不思議なちから。きっとそれが人類全てに共通する愛であり、真実であり、希望だからこそ、ちからとなるのでしょう。
 「大切なものは あとからついてくる」。見えなくてもここにある。確かにここにある。ここに在った確かな生命も、今ここに在る私たちの生命もどこへ還ってゆくのでしょうか。

                    (みやはら・みな)

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