たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 
「絵本フォーラム」第80号・2012.01.10
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懸命に働き暮らす人々の豊かなお正月

『春節 チュンチエ 中国のおしょうがつ』

    
 ゆく年くる年、歳末年始に人々は何を想うのだろうか。

 物質的欲望の充足を豊かさの尺度としてきた現代社会は、東北大津波やフクシマに遭遇して尺度の矛盾をはげしく突かれた。自然や大地に敬虔さを持つこと、科学技術に安全神話など決して求められないことを思い知らされる。そんな年の歳末年始であるが、何事もなかったかのように贅を唆す商戦や海外旅行を煽る広宣戦が賑わう。新年を厳かに祝う人々の伝統的な暮らしの実際が都市を中心に変容してしまったからである。しかし、地域に根差す人々の強い心情や望郷の想いを抱く人々の心打たれる実際を東北やフクシマにより知らされて去来する想いを巡らせた人々も多いだろう。

 初春とか新春の季語があるようにお正月はもともと立春のお祝いである。新年と立春がほぼ一致した旧暦で世の中が動いたころは仕事や生業と神事のリズムがほぼ一致して旧年新年の大きな区切りを感じることのできる旬間であったが、現在では大型レジャー期間の趣が強い。日本と異なり、中国では現在でも二月ころに旧暦立春を真中に全国的な伝統祝祭月間として新年を祝う。

 絵本『春節・チュンチエ』は哀しみ喜びの起伏を包み込んで暮らす中国人家族や地域のお正月のありようを慎ましく閑かに語っている。
 少女マオマオの父さんは一年に一度しか家に帰らない。出稼ぎで働く建築職人の父さんが帰るのはお正月だけ。帰省日は決まって旧暦大晦日だ。高度成長で世界中を刮目させる中国だが国民の多くは物質的豊かさとは無縁だ。人々は懸命に働き暮らし、貧しい農村から都市へ出稼ぎに向かう人々も多い。
 故郷は遠くにありて想うもの。遠くで働く父さんの一番幸福な時間は郷里で家族と過ごす一時である。大晦日の朝、マオマオとめずらしくおめかしした母さんは駅のホーム迎えに立つ。降車する父さんを迎える母さん。なぜだか、柱に隠れて近づけないマオマオ。一年ぶりの父娘の再会は少女の心を微妙にゆさぶるのだ。

 帰省した父さんは忙しい。休む間もなく家中の掃除片付け。新年を祝う紅紙(春聯)を戸口に貼り、軒先には紅い燈籠をさげた。正月一日は一家で年始回り。二日は丸一年の家の傷みを一手に引き受けて修復する。父さんは家族のために働くことが一番なのだろう。そんな父さんと一緒に過ごすマオマオの安心感に浸る姿がいい。何だか楽しそうで、誇らしげで気持がよい。
 大晦日の夕、父と娘は湯園(だんご汁)用だんごをつくる。そのひとつに父さんはコインを入れた。食べた人に幸運が宿るというコインだ。正月一日、父さんが仕組んだのだろうか、幸運のコインはマオマオが獲得。で、正月三日、雪あそびのなかでコインの紛失騒動が起こる。…失くしたと思いこみ泣き出したマオマオ。ところが、寝床につく着替え中にコインがチャリンと床に落ちて一件は解決。悲嘆は一転、破顔一笑となる。めでたしめでたしのストーリーだが、一夜明けると物語はしんみりと展開する。
 正月四日、朝、マオマオが目覚めると父さんは旅支度の真最中。あんなに忙しく働き動いていたのに、たったの五日で、もう行ってしまうという父さん…。マオマオを抱きしめ抱える父さんは、「今度はお人形を買ってこようとささやく」が、マオマオは「そんなのいらない」とすねる。ずっと父さんが居てくれる方がいいというのだろうか。せいいっぱいで心を持ち直したマオマオが、あの幸福のコインを「これあげる」と父さんの手にのせる。「帰ってきたら、また湯園に入れようよ」というのである。父と娘、愛しむ互いの心が最高潮に高揚する一瞬。体温で暖められたコインを手中に、父さんはマオマオを抱きかかえたまま、無言でうなずくばかり。

 幸福とは何だろうか。大天災・大人災に遭遇して価値観の大きく揺らぐ年末年始の現在。想いを巡らす一冊となった。

『春節 チュンチエ 中国のおしょうがつ』
( ユイ・リーチョン/文、チュ・チョンリャン/絵、中 由美子/訳、光村教育図書)

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