■中川正文先生のこと
本欄「絵本・わたしの旅立ち」を長く執筆頂いた中川正文先生が、2011年10月13日に宇治市の病院で不帰の人となられた。享年90歳。
個人的な事情を打ち明ければ、2日後(15日)に先生をお訪ねする予定であった。その前に、「絵本で子育て」センターの森ゆり子理事長や大長咲子、舛谷裕子両氏が先生をお見舞いした折の状況を聞き、「また、元気な先生にお会いできる」、と迂闊にも臆断していた。無念としか言いようがない……。
晩年の先生の謦咳に接して授かったものの多さに驚いている。絵本・児童文学の世界の講義はもちろんのこと、小センターの運営についても多くの助言をいただいた。有り難いことである。また、「絵本講師・養成講座」の講演をお願いして、東京、福岡に同道した折、ホテルの酒席での片言隻語に、先生の「お茶目な一面」を伺ったことも再三であった。それはまた私にとって愉悦のひとときでもあった。これらの種種については、稿を改めて書き残しておきたい。合掌。

■3・11以降の日常……
3・11を境にして精神が変調をきたしている。それは今現在も継続している。他人に話すと「もともと変ですから」、と取り合ってもらえない。それは、どのような症状かというと、「涙腺機能が破壊」されたとでもいえばいいのか。ちょっとしたこと、たとえばテレビを観たり本を読んだりしていた折に、落涙するのだ。落涙の原因となる場面、文面に共通するのは何と言ったらいいのか、ありふれた日常の「人の善意のようなもの」が出てきたときだ。もう10カ月も不治である。困ったことである。

*「事故収束」宣言は「犯罪」である
ここ数日のテレビニュースや新聞を徴して思うことは、この国(政府)はもはや完全に正気を失っているということである。小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)の「日本は法治国家の体をなしていない」、との発言は多くの人に首肯されるのではないか……。
政府は、東京電力福島第1原発の冷温停止状態が達成できたとして、「事故収束」宣言を内外に発表した。まことに愚かで深慮を欠いていると言わざるを得ない。国内メディアも、その拙速宣言に疑問を投げかけているが、海外のメディアの批判はさらに手厳しい。ドイツのメディアは「政府のプロパガンダである」。アメリカのそれは「欺瞞である。放射能をいまだ夥しく放出している。収束なんてとんでもない」。
溶融した核燃料がどこに在るかも定かでない状態での「宣言」は、地元・福島県の被災者にとっては犯罪行為である。加害者の取るべき風儀ではない。
この国の政府は、事故発生時からどれだけの欺瞞を積み重ねてきたのか。どれだけ欺瞞を積み重ね、この国の民を「虚仮(こけ)」にしたら気が済むのか。正気の沙汰ではない。
事故直後の避難区域の設定、枝野幸男(当時の官房長官)の嘘でコーティングされた数多の発表情報、さらに「除染して帰郷」などという途轍もないまやかしも記憶されなくてはなるまい。除染とは、放射能(物質)をA地点からB地点に移動することであり、消滅するのではなく、なんら本質の解決策にはならない。
企業や国家が「犯罪者」になることは、そんなに珍しいことではない。その最たるものが戦争である。また、大災害、大事故時における資本主義の犯罪、横暴は『ショック・ドクトリン 上下』(ナオミ・クライン/著、幾島幸子・村上由見子/訳、岩波書店)に詳しい。政府や東京電力は紛うかたなく「犯罪者的集団」である。

*記憶されるべき言葉
氾濫する情報の中で心に掬する言説はまことに少ない。そんな中で次の文章は私の胸底に重く残って消えない。
『放射能汚染の現実を超えて』(小出裕章/著、河出書房新社)

《五十億年近いといわれる地球の歴史の中で、人類といわれる生物種が発生したのはわずか数百万年前のことである。その人類は自らの生物種が属する類を「霊長類」と名づけ、そして自らのことを「万物の霊長」と名づけている。しかし、人類の種としての絶滅は、いまやはっきりと目に見えるようになってきた。(中略)中世代に地球を征服したといわれる恐竜は、ある時期に突如として地球から姿を消した。「万物の霊長」たる人類からみれば、巨大であっても、まことに頭の悪い野蛮な動物であったというのが一般の見方であろう。しかし、その恐竜たちは一億年にわたって種を維持したのである。(中略)それに比べ、人類の絶滅の決定的な要因は、人類が自ら蒔いた種によるものである。まことに自業自得というべきであるし、人類は恐竜以上に愚かな生物種であったというべきだろう。》(後略)

この国にも、信頼するに足る学者はいる。それが微かな希望である。                                   2011年12月19日記
(ふじい・ゆういち)

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