えほん育児日記
〜絵本フォーラム第79号(2011年11.10)より〜

様々なシーンで思う

大久保 広子 (絵本講師)

 確かに夏休みに入るときに「ママ!ピアノの伴奏見てね、ママと一緒なら頑張れるから」と言われた。しかし私は楽譜をチラリと見て「これぐらい、ちょっとずつ毎日練習すればできるでしょ? まず弾いてごらん。それから見てあげるから」と言ってすっかり忘れていた。それから2ヶ月後…夜、布団の中でジリジリバタバタする娘。

 「何かあった?」と尋ねる私に「別に…」と、少々機嫌悪く沈黙の後「音楽会で学年合唱のピアノ伴奏をしてほしいと先生に期待され」「近日中に伴奏の出来を見せてほしいと言われた」ということを話し始めた。
 それなら夏休みのころから練習を始めていたのだから、そこそこ出来ているはず。「少しは出来ているのでしょう?」の問いに「○○ちゃんが練習しているって言ってたし、今年は歌を歌おうかなぁって思ったし、前奏しか良く分からなかったから全然練習していない」と、唖然とするような答えが返ってきた。

 「なんで?」「だって弾けないもんっ」「そんなのちょっとずつ練習すれば出来るでしょう? じゃあ、○○ちゃんはどうなったの?」「なんか良く分からない。でも先生がダメだって」「じゃあ今から練習すれば?」「無理、出来ない」「歌を歌いたいから、伴奏しませんっていうのも別に悪いことではないでしょう?」「私が弾かないと、今年は先生が弾くことになるんだって。そんなの前代未聞だよ。恥ずかしいし、ありえないっ」「じゃあ練習しようよ」「無理っ」…と会話がぐるぐるし始める。

 しかし、もうそんなことを言い合っている場合ではない。
音楽会まで、あと1ヶ月と何日か——。娘が「弾くのか、弾かないのか」決断をしなくては。
 話す中で「先生が弾くのは嫌」=「6学年のために私が弾かなくては」、「大切な曲だ」という気持ちが強いことが分かった。そうであれば「弾けない(と思い込んでいる)」気持ちを「弾けそう」というイメージに持っていけばいい。「明日ピアノ見てあげる。やるだけやって駄目なら考えよう」と伝え、その日の会話は終了した。

 早速インターネットで伴奏の動画を探し保存。翌日は少し早めに帰宅しピアノに一緒に向かい、まずは娘のお手並み拝見。すると、ゆっくり途切れがちではあるけれど半分ぐらいの部分が出来ている。思わず「楽勝じゃない!」と言うと、暗い表情で「一小節一小節ができていても、つながらなくては意味がない。部分部分が出来ても、つなげられないから曲が分からないし、曲のイメージが分からない」と。
 「そんなことはこれからの練習で何とでもなるでしょう?一日でこんなに出来ているのだから明日からちゃんと一人で練習しなさいね」と言いそうになりハッとした。

 それは、「字が読めるようになったのだから絵本を自分で読みなさい」と見放してしまうことと同じなのではないか?と。バラバラの字が読めても、それが言葉、文章としてつながるわけではない。文字を追おうとすれば絵なんて目に入らない。文字だけで精一杯では、絵本から何も伝わらなく絵本がつまらないものになってしまう。だからこそ大人は、子どもが字を読めるようになっても、どんなに大きくなっても絵本を読んであげるのではないか。

 今更ながらに反省しつつ「次の土日しっかり見てあげるからね!」と約束をし、保存しておいた動画を見るために、1冊の本を一緒に見るように肩を寄せあい椅子に座った。パソコンの中の滑らかな伴奏に聴き入る娘、弾けない部分も「ここ、すっごくきれいなメロディー」「こうやって弾くんだ…」と、イメージがふくらみ徐々に感情が高まっていることを横で感じる。
 聴き終えたところで、合唱バージョンの動画が目についたので再生してみる。—なんていい歌詞!!なんて素晴らしいハーモニー!!この合唱の伴奏を娘がするのかと思ったとたん涙がポロリ。
 「私はこの曲の「音符」にしか目を向けていなかった。最初に旋律やハーモニーや歌詞のことや作詞家・作曲者全部の素晴らしさまで、まるごと全部娘が味わえるようにしてあげれば娘をつまずかせることもなかった。絵本を読んであげるように心を寄り添わせ、夏休みには一日でも一緒にピアノの椅子に座ってあげるべきだったのだ」と思い号泣。「ごめんね。この歌詞すごくいいね。本当に素敵な曲だね」と言うと「あたり前じゃない、ホラ」と、にっこり笑って楽譜の作詞者を指さす娘。

 『信じる』 作詞 谷川俊太郎…
 その瞬間、娘と一緒に読んだ大好きな谷川先生の絵本の表紙や詩のフレーズが脳裏にバババッと浮び、娘がこの曲を「大切な曲だ」と言った意味が理解できた。

 様々なシーンでの『「絵本で子育て」の真髄』とは。
 また新たな課題を娘から与えられました。

(おおくぼ・ひろこ)

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