たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第78号・2011.09.10
●●67

名は自己証明の砦。すききらいの淵源に深い愛情が…。

しげちゃん』

 俳優という仕事の実際をよく知らない。知らないけれど、鑑賞後の味わいを永く残す役者に出会うと尾を引いて当該役者の出演する映画やテレビドラマを追いたくなる。多くの場合、主演者でなく、脇を固めた俳優にそれは多い。例えば、小沢昭一とか、小林聡美とか、室井滋とかいった役者たちだ。

 彼らは地がそうなのではないかと思わせる役回りでいつも登場する。普段着の、普段の口調で肩肘張らないふるまい、気風の良さや、知的風味まで覗かせる。役者俳優であるから、それなりに役づくりに腐心しているにちがいない。彼らは、役づくりを見抜かれない芸達者ということになるのだろうか。名優といわれる個性ゆたかな役者には、そこに至る学習や苦労が蓄積されているのだと思う。

 で、ここは室井滋の名に因むおはなし一題。

 室井滋は芸名でなく本名だそうだ。名は滋でシゲルと読む。通称はしげちゃんで、れっきとした女性。まぁシゲルの名の多くは男だろう。だから、子どもの頃の室井はこの名で振り回される。ウキウキして迎えた小学校の入学式からして被害にあう。男子を示す水色の紙に書かれて貼られた「しげる」の名。おまけに隣り席のたけし君が「ボ、ボ、ボクの横だけ、男ッ ! 」と泣きべそかいている。泣きたいのは、しげちゃんのほうではないか。しだいに慣れっこにはなるが名のせいで何度もいやな目にあうしげちゃん。気分がいいはずがない。

 だから、いやな名前とおさらばしたいと自分で名を変えてみる。濁点を消して「しける」としたり、「シ」を「ツ」に変えて「ツケル」としたり。少しばかり名をいじくってみてもどうにもしっくりしない。そこで、お母さんに「わたし、自分の名前、キライ !  可愛い名前に変えてよ」と訴えるのだが…。お母さんはなかなかの傑物でギロリと睨む。「生まれてからずっと『しげる』なんだから変えられるわけないでしょ」と怖い顔をするのだ。

  室井滋は、こんな自分の体験を、家庭の暮らしぶりをふんわり大胆に描かせたら名人肌の絵づくりをする長谷川義史とコンビを組み、何とも気分のいい絵本を創る。 ( 『しげちゃん』 )

 

 名前は、自己証明の一番の砦だ。自分が自分である事の、つまり、本人に間違いがないことの証しである。女を男に間違えられるなんて自己同一性を否定されることではないか。室井滋が男と取り違えられるような自分の名をキライになるのを責めることはできない。

 実は、ぼく自身、同じような経験を持つ。ぼくの息子の名は肇でタダシと読む。その名の性別を女として住民票に記した都下の市役所がある。必要あって住民票を求めたところ息子の性別の欄を「女」としていることに気づいたのだ。河上肇の『貧乏物語』に感じ入って息子の名に戴いた名だ。けしからん話で許せることでない。

 オイ、オイ、オーイ、何てことしてくれるのだッ。まだ若くて血の気の多い時分、ぼくは怒る。はげしく役人に抗議する。窓口職員では埒が明かず、さぁ謝れ、今すぐ正せ、と課長氏に迫った。本籍地の役所にもその場で連絡をとらせ、住民票だけが誤っていることが判る。「すぐに訂正はできません」としていた課長氏もぼくの勢いに押されて、あちこち電話をしまくった。結果、その場で訂正が可能となる。息子のそのもの性 = アイデンティティを否定されて、息子に代わってぼくが激昂したしだい…。

 で、しげちゃんは、どうしたか。お母さんが睨みつけ怖い顔をしたのにはちゃんと理由があった。親が子どもに名をつけるときは懸命で、子どもが幸せになれそうな名を考えること、「しげる」の名は、しげちゃんが生まれる前に体が弱くて亡くなったお兄ちゃんがいて、そのお兄ちゃんの分まで元気に生きて欲しいという願いが込められていること。お母さんは、だから、「滋」は滋養の「滋」で、善いことも悪いことも何でも勉強になって栄養がいっぱいになるという意味だと語るのだ。さしものしげちゃんも「へェ〜 ! 」といたって素直になるのである。

 どうやら、しげちゃん、「しげる」の名がそんじゃそこらのしげるとは違うのだと、感得する。そして、人一倍だいすきな名として胸いっぱいにしまいこむ。

 女優・室井滋の虚像と実像の実際がいよいよ不明となるおはなし。不思議な爽快さが残る。

『しげちゃん』(室井滋/作 長谷川義史/絵、金の星社)

前へ次へ