絵本・わたしの旅立ち
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「読み聞かせ・者」の原点

 わたしたち「読み聞かせ・者」の仕事は、もちろん、わたしたちだけで終わるものではありません。「あたりまえのことじゃないか」と笑われてしまいます。

 笑われるだけならいいのですが、そんな当然のことも考えないで、読み聞かせ・者などと偉そうにいえるのかいえるのか!と叱られて、ガッカリです。

 わたしたちだけで終わる仕事でないということは、どんな場合にも伝達したい相手に、伝えたい内容のすべてが、とどいているかということ「当事者」として充分に点検するにほかならないわけですが、いかにもそういう本質的探求を怠って、ここでは便宜的に読み聞かせ者の原点のなかから、その視聴覚的部分だけをつまり本質的なものをヌキにして伝達の手法だけを拡大して、引き合いに語りたいため、やや大げさでアイマイないい方をして、ゴマかしたみたいで、ごめんなさい。

 さて読み聞かせ者にとって、視聴覚的分野といえば、まず音声からでしょう。彼が語る絵本の言葉が、どこで造られて送られてくる音声であるか、とにかく語り手の原点です。

 わたしは音声の産まれる段階がいくつもありますが、何といっても腹の奥から風のように出てくるもの、つまり腹式呼吸によって出なければならないものを、まず第一の基礎的なタイプだと考えたいと思っています。それは人間の音声のなかでも、体内の最も深いところで守られた言葉が、全身的な音声となって、ある一定の力に押されながら出てくるもの、人格的にも知的情緒的な表情で表れてくる豊かさ。わたしは絵本の言葉がすべて、こんな風な綜合的・複合的重厚な音声であってほしいと思っています。そのうえ、全身的な表現のバランスに支えられるせいで、生理的にも疲れが少なく、いつまでも語りつづけられるような力量が自然に身につくのではありませんか。

 読み聞かせ絵本は、腹の底からひびいてくる暖かい風として、すべての読み聞かせ者が、みずからの仕事と自分を鍛える仕事が、このあたりに集中してほしいのです。

 しかしわたしたちが伝達したい内容は、そのすべてを必ずしもこういう呼吸法で賄えるわけにはいかないでしょう。腹式呼吸法から落ちこぼれる言葉—サルがキャッキャツと騒いだり、車が人をひいたり、戦車が敵前上陸作戦をする場面向の言葉も当然必要ですが、そういう荒っぽい語りの受け皿としては、胸で喋る便利な言葉も別に用意しなければならないでしょう。しかしそういう胸部呼吸法で発せられるのは、わたしたち日常生活の殆ど同じ手法ですから、腹式呼吸よりは少々楽ですから、つい喋りすぎて、個々の物語にある種の歪みを残すことになりかねません。

 更に胸で息をする話法をはずれる特殊な状態や言葉を表現するには、表現したい内容に近い物真似に似た表現が必要ですから、それなりに模倣することもあり得ますが、たとえばそれらの言葉のなかにオノマトペの中でも実物そっくりの語り方、たとえばニワトリの鳴き声など、そのものが何であるかわかる程度でとどめてほしいです。

 そして最も気をつけてほしいことは、相手により理解をすすめるために、わざと大声を出したり、機械によって拡声したりしないでほしいと思います。聞こうという姿勢にならなくても、ガンガンとすべてがわかるのは問題ですから、なるべく低い小さい音量で伝達したいものです。耳をすまして他者の言葉を聞くなどは、読み聞かせが届けてくれる最もありがたい効果ですから…。

 音声が終われば身体的表現の部分ですが、要は伝えたい内容を増幅することなく伝えるわけですが、相手の認識を早くするためには、ひとつの身体的動作であって複合的に演じられるものは、行動の要素に分解することで可能です。「重い荷物をかつぐ」という物語場面を描くためには、「重い」と「荷物」を別々に表現することで重層的表現が確実になるようです。次回は実際場面について実技を演じて身につけたいと思います。

(つづく)

 ここまで書いたとき、あの東日本大震災がテレビで送られてきました。日本人にとって千年に一度あるかどうかの惨事。皆さんと共に、ここから深い哀悼の思いをささげたいと存じます。


「絵本フォーラム」76号・2011.05.10



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