たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第73号・2010.11.10
●●62

悪行とは何か。毒を含んで語り含めた昔話の役割

『したきりすずめ』

  チリ北部コピアポ郊外のサンホセ鉱山落盤事故で七百メートルもの地下に閉じ込められた三十三人が七十日もの想像を絶する苦難を克服して奇跡的に救出された。 30 度を超える暗がりの洞穴のなか、人々はどのようにして生き抜いたのだろうか、人間に宿る何か不思議な力が働いたのだろうか。感動を呼ぶ生還の背景には、過酷な労働を強いる杜撰な鉱山経営や政府の安全施策に大きな欠落があったという。こんな実際を糊塗して大事故を政治的に利用したり、被害者を英雄扱いで煽る軽薄メディアや、商品化を狙う有象無象の輩の横行は止めて欲しい。

昔々のこと、過ぎ去った日々のことを振り返り語ると、現実逃避だの、後ろ向きだのと揶揄されることが多い。人々が過去を振り返ることは果して揶揄されることか。人間の歴史は過去に生起した事象を因に、現在に結果した脈絡の物語だ。過去を振り返ることからしか未来の展望は描けない。希望を捨てずに未来を描いた三十三人は、奇跡の生還の知恵を彼らの過去の所業を振り返ることから得たのではないか。

で、ぼくも昔話を振り返る。本なんてまるで縁のなかった幼年時代、祖母はよく素語りで昔話を聞かせてくれた。代表的な昔話をほとんど習得記憶していた慶応年間生れの祖母は淀みのないやさしい口調で演じ語り、ぼくを喜ばせた。舌切り雀の話もそのひとつ。善人でお人よしのじいさんと意地悪で欲深いばあさんのはなしだ。昔話の多くは勧善懲悪ばなしで、めでたしめでたしで完結する物語。だが、古くは相当に残酷妖艶な毒味を帯びた内容であったらしい。祖母が語った昔話にも毒味がまだ残っていたように思う。

岩崎書店刊『したきりすずめ』は最新刊。ばあさんは嫉妬深くて相当な意地悪で、じいさんの可愛がるすずめを何かにつけて目の敵にする。洗濯のりをすずめに食べられて激昂するのも古来に倣う。で、ばあさんは残酷にもすずめの舌を切り落とす。舌を切られて逃げ出した可愛そうなすずめを探しに出るじいさん。道中で徳のない連中に馬や牛の洗い汁を飲まされるが、じいさんはすずめの宿を探しあてる。ばあさんの舌きりを詫びるじいさん。すずめはじいさんのやさしさの返礼につづらを贈る。何とつづらの中身は金襴緞子に大判小判がぎっしりと詰まっていた…。嫉妬深いばあさんがどんなにか妬んで羨んだことか。わしにもと、ばあさんはすずめの宿へ出かけてつづらをもらうが、葛篭からはどうしたことか、どろどろどろどろ…とおどろおどろしいおばけたちが飛び出して腰を抜かしてしまった、という説話だ。…無欲なじいさんは小さなつづら、欲深のばあさんは大きなつづらを選ぶという昔話づくりの定型で物語は無難に落ち着くのである。

広松由希子のテキストは説教調の訓話をほどよく抑制する。じいさんに馬や牛の汚れた洗い汁を飲ませる悪行を描いたのは、「良い子のためのいい話」から距離をとろうとしたのだろうか。この絵本では、ささめやゆきの絵やその運びが傑出している。筆舌で語れないほどにいい。馬方、牛方が妙に愛嬌があるのもテキストとの不思議な調和を見せる。

悪行に走ればとんでもない仕打ちを受けるという昔話の明快さを、ぼくは怖さと壮快さを同居させて真剣になって祖母から聞いた。戦後民主主義がいびつに説かれるなかで、説教調で教条的と非難されて毒味のない「いい話」となって魅力を失った昔話。かつての昔話は復権するのだろうか。「善」の奨めはともかく、「悪」とは何かを教えてくれるひとつが、ぼくにとっては祖母の語る昔話だった。

『したきりすずめ』(広松由希子/文 ささめやゆき/絵、岩崎書店)

前へ次へ