絵本・わたしの旅立ち
絵本・わたしの旅立ち

絵本・わたしの旅立ち

− 38 −
しんどい我が天職よ!ありがとう

 子どもたちと、いっしょに絵本を読んだりするときに、まるで「独り芝居」のように、巧みな話術で上手に演じる方があります。

 世間は広いもので、そういう方々の中には現にテレビやラジオの朗読者がハダシになりかねないくらいの優れた方がいて、ボランティアの人たちに拍手喝采され、

「みんな、あの方に負けないよう稽古を忘れないように努力しましょう」

 などといって、早速ボランティア・スキル・アップ講座などを開いてほしいと、役所にかけこみます。役所でも、チャンと指導できる方もいらっしゃる筈ですが、外部講師を呼んで、

「このごろ皆さん、積極的になりまして…」

と喜ぶような雰囲気がでてくるようになります。

 人前でものもいえない人ならともかく、互いに日常生活での言葉が通じないなら別ですが、普通なら特別そんなことをしなくていいのです。

 大体、ふだんなら、ふだん使っている自分流の話し方で一生懸命語ろうとする、気持ちは必ず通じるものです。わざわざプロのタレントや、妙にクセの強いおはなし天狗を呼ぶような無駄なことは、むしろしない方が、いいのではありませんか。

 というのは、お話にしても、絵本にしても、また紙芝居や人形劇などには、相手が子どもの場合なら、経験上それぞれにふさわしい「演じ方」があることは承知でしょう。

 たとえば、お話は、話者の声を耳にしながら、また演技者の語る姿のように、その話の内容を頭の中で、アリアリと想像して理解するのが特徴です。そういうことを生かした伝え方が理想的で、話をする方が必要以上に、前面に出しゃばらないで、ステキな想像力で広い大きな世界にわかるようなら、姿を見せないで、かくれて演ずることもふさわしいと言えましょう。

 また同じく話者が人前にあらわれて素話しをするにするにしても、セリフにメリハリ  演劇的な抑揚を、どの程度にするかが決り業になりますが、タレントが演技してみせる「独り芝居」などでは、やはり自分の演技力への自信のためか、やり過ぎなのです。せっかくのイメージを作るプロセスの足を引っぱりかねません。

 これは紙芝居を演ずるとき、人形劇、舞台劇を演ずるときにもご承知のとおりそれぞれ、子どもたちが理解するためのイメージ化の時間に関係があるでしょう。それぞれ内容のイメージ化の時間や、解像力・構成力の程度の段階によって、変わって来なければならない変化の面白さが味わえるというものでしょう。

 紙芝居が、舞台のうしろに姿を消したり、舞台の横に出っ張って、演じたりすることが多いのですが、はじめから紙芝居というものは演技者がかくれるもの、いや街頭紙芝居のように、出づかいするものと、固定的に決めてかかっては困るということも、この辺の実情にあります。

 最近、そういう事情ををカン違いしている紙芝居の演技者、人形劇の演出家などいて  作品の全体のテンポを、筋の展開をスピーディにすることが能力のある人、上手なひと  とする評価が一般に広がっていて、残念です。

 たとえば、子どもたちの好きな人形劇であるにしても、

劇の内容、筋がきなど

    +

人形の形 + その演技+ 人形の言葉 + 劇の中でのその人形の立場・対人関係 + 舞台装置や効果音・音楽など

    +

劇を操る人の演技

    ←

観客 + 見る人 + きく人 + 単に参加

 わかりきったことを図示したわけですが、子どもに絵本をとどけるということが、広く子どもの文化や文化財のなかで、どういう位置に在るか。そういうことを正しく認識して絵本を読むスピード、語り方が決まるわけで、年少児であればあるほど、イメージをつくって「演技者の働きかけ」を待つ、という形を認識する  というのが、積極的に子どもに絵本をとどけようとする私たちの立場です。時には、よく

「幼児相手や赤ちゃん相手の絵本の伝達は、余計な間の手が入ってシンキくさい」

と、こぼされることも多いのですが、そういう演ずる形式による違いを、、保護者の方々が、演ずる現場と共通する認識を共有してもらう努力をしなければならないシンドイ仕事  それが私たちに与えられた誰にも代わることのできない「私たちの天職」というものです。

 ややこしい言い方を、アア、シンドー・でも、ありがとう。


「絵本フォーラム」72号・2010.09.10



前へ ★ 次へ