たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第72号・2010.09.10
●●61

微笑ましい自我のめばえの執着ぶり

『あかがいちばん』

 どうでもよいことに気持ちがとらわれることがある。

 最近多いのだが、世に跋扈するテレビキャスターたちが我意を良識と勘違いして思い上がるさまがひどく気になる。客観性を可能なかぎり担保してほしいジャーナリストであるのに、尊大に語る言種仕種が必要以上に気になる。「客観語りでなく主観披露の、場合によっては騙りじゃないか…、そんなので世論を誘導されたらたまらん」と、ぼくはかれらをぶつぶつ怒る。ときたまだが、歩行中であるのに直りもしない右目の蚊紋症にしきりにこだわって眼前の蚊紋を必要以上に追いかけ回し足元不如意という、ぼくもいる。

 こんなこだわり癖はまぁ歓迎されない。まして、金品への執着や特定個人へのご執心となれば危ない性癖として扱われるにちがいない。大人たるもの徒な拘泥や執着執心は理性で慎み抑制しなければならないのだ。

 やや否定的で後ろ向きの「こだわり」や「執着」の用法も現在ではずいぶんと広がる。 ” こだわりの逸品 ” とか、 ” 道具に執着する ” といった好みや嗜好趣味を積極的に肯定するのが流行っている。「虜になる」意で「嵌る」 ( はまる ) もよく似た意で用いられるようだ。今風で洒落た用法らしいが、ぼくは使わない。

 といっても、 子どもたちはまったく別だ。幼児や学童のこだわる心や執着する心の淵源は大人たちのそれとまったく違うと思うからだ。

 なんだかまったく説明つかないけれど、△ が好き。誰がどんなに言ったって、△ が好き。何がなんでも、好きは好き。…ある事物にすっかり心を寄せる幼児や学童。理由などなく何がなんでも、嫌い、というのもあるだろう。自我のめばえはじめの幼児や児童の心性はまだまだ純粋素朴で直截である。だから、何がなんでもとなるのだろうが、そのこだわりや執心ぶりは微笑ましい。幼児の「好き」の拠り所には何があるのだろうか。安心か、快感か。

 大人の持つ好き嫌いの感情はある程度の説明がつく。多くはエゴイズム ( 利己主義 ) からくる厄介な心性である。だから、大人たちは理性で不純な感情や心性を制御しなければならない。それに対し、多くは善意の庇護の中にあり、悪や不正義の知識も体験もない子どもたちはまるで異なる。子どもたちのこだわりや執着心はかえって物事に熱中する心や集中力につながるようだと、ぼくは思う。

 絵本『あかがいちばん』は「赤」に執心する少女のお話である。本扉をめくると白地見開き右頁中央に一分節の一行がそっとささやくように語りかける。

 「おかあさんだったら、あかのこと、なんにもわかってないんだよ」。

 一人称で語る少女「わたし」が主人公。朗らかであどけない「わたし」は詠うように語りつづける。

わたしは、あかいくつしたがいちばんすき。/なのに、おかあさんは「こっちのくつしたにしなさい。そのワンピースにはしろのほうがあうでしょ」っていうの。/だけど、あかいくつしたのほうが、ずっとたかくとべる。/わたしはあかいくつしたがいちばんすき 。

 こんな調子とリズムで繰り返される 8 つの母と子のダイアローグ。赤い上着に長靴、手袋にパジャマ、コップにピンどめ、そして絵の具。「わたし」が大好きな 8 つの生活を彩る品々でピンクでもオレンジでもない深紅の赤でなければならない少女と、なんにもわかっていないおかあさんとの愉快な対話。ぼくは意味なく手を打つの デス 。

 自分が子どもだった頃のことを、どうして大人たちは忘れてしまうのだろうか。「わたし」は、 ” そう、そうだったねぇ。わかるよ、わかる ” と、ぼくをうなづかせ、既に成人したわが子の育った過程を反芻させたりする。

 なによりもイラストが快活に語る。配色のない背景。ペン画のシャープさ。際立つ赤色以外は淡いわずかな配色に留めた絵画構成がさわやかに胸に届くのである。

あかがいちばん』
(キャシー・スティンスン/作 ロビン・ベアード・ルイス/絵 ふしみみさを/訳 ほるぷ出版

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