絵本・わたしの旅立ち
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絵本・わたしの旅立ち

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いつまでたっても迷います

  ひとは皆、若い時から今まで生きてみると、これまで予想もしなかった自分のすがたが見えてきて、ギョッとしたり、やや未来を絶望的に深く考えこんだりすることがあるのでしょうか。
  たとえば入院を重ね、病院だけでなく病気とつきあってきた私など、生活がそのように追いこまれるたびに、心情だけでなく、体調までがガラリと変化するので、われながら他の人にはわからないように、心身とも韜晦(とうかい)させるようなふりをし始めるので、自分でも驚いてしまうのです。
  その徴候は、ある日、別に原因の見当もつかないのに、ある時間がくると、突如熱がでます。熱とはいえ三十八度くらいなのですが、それが始まると生き方・考え方までが変わってしまうので不思議です。
  昨日まで力いっぱい取り組み、それなりに満足していた「絵本とのつきあい」が霧が晴れるときのように、パっと姿まで変えてしまうのです。
  わたしの身近には成人してから七十年そのあいだに深くつきあってきた絵本や文学などが、山のように存在するのですが、熱が出はじめたとたん、何を急ぐのか、あわてて引っぱり出してきて、むさぶるように読みかえし始めます。
  すると、その一冊ずつ、最初に接した印象や、その時代の評価が、明らかに形をみせ、現時点での自分の受容とを比べてみて、納得したり拒否したりするわけです。
  若い折「何とすばらしい」と感じていたものが、そしてそこから絶対的に学ばなければならないものと思っていた事柄が、急にガラガラと音を立てて崩れ、逆にこんな作品を「なぜ評価していたのか」と、自分の絵本の歴史のなかの絵本の価値観の頼りなさに失望してしまうのです。
  いったいこれは、どうしたことでしょう。
  嘗て私は、児童文化全般にわたって「高みにたって、子どもに与えるというものであってはならない。共に楽しむものだ。成人は読み手として人間として感動したものを、それなりに読んでみる。子どもたちは聞き手として——つまり受容者として、読み手が感動したところを同じく感動する。換言すると、一冊の絵本を仲立ちにして、読み手と受け手とが、共に経験を同じくする、そして更に同じく成長をするものだ」と言いつづけてきた。それは私が人間であり、また絵本作家であって、しかも伝達者であるのが、人間と絵本との基本的姿勢だと信じきっていたのです。
  しかし、ごく近ごろになって、歴史的にも思いがけずこれまでになく質と量とを示していたハンランする赤ちゃん絵本が、ほんとうに自らが感動できるものなのか?
  「これはすごい、うちの赤ん坊と一緒に読もう」と本気に覚悟をきめられるような絵本に接触する経験をしたことがあるのか?
  現在の自分の能力を否定的に眺めるようになる——こんなことがあっていいのか?
  相手が批評もできない赤ちゃんであることを、いいことにして、感動論をおしすすめていいのか。反省に似た辛い思いが、日に日に濃くなっていくのです。
  それでつい同業の作家や画家、研究者・伝達者としての名声を得ている人々に会うたびに「こんなバナナ一本が置かれているだけ」「くまの子どもが座りこんで、手あそびしている状景を描いているだけでいいのか」
  とただしてみたら、すべて私の質問や呼びかけに、まっとうに相手になってくれません。ひどいのになると、
  「何だ、いまごろ、そんな疑問を持っていたのか、幼稚だぞ」
と、いなされてしまうのがオチです。
  友人たちがいうように、そんな考えが幼稚なのでしょうか。そういう「秀れた」という絵本の絵が、他の視覚的児童文化と比較して、そんなに威張るだけのことがあると考えていいのでしょうか。
  私は、そんな間接的な表現に頼って安心しているより、一個の全体的存在であるバナナ実物そのままを、絵よりももっと実物に近い玩具や写真の方が、実物に代わるものであり得るのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
  赤ちゃん絵本は、そういうモノの存在を確認・再認するための大切な「道具」であることが、当時の定説であった——つまり子どもの発達に即した絵本の純粋性であると思い返えすのですが…。おどろおどろしい深い森に迷いこんだような、現在の私なのです。


「絵本フォーラム」71号・2010.07.10



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