絵本のちから 過本の可能性

「絵本フォーラム」70号・2010.05.10

向き合わないといけない
——異界に去った瀬川康男に——

稲垣 勇一(絵本講師・長野県上田市)

 1932年長野県上田市に生まれる。信州大学教育学部卒業後、県内の主に国語科教員として勤務。生涯現場でという思いを貫く。退職後、本格的に絵本と民話に向き合うようになる。「日本民話の会」「全日本語りネットワーク」「JPIC読書アドバイザー」「塩田平民話研究所」「上田図書館倶楽部」などに所属。「絵本講師・養成講座」講師。 正直、私はまだ、瀬川康男の死を自分のなかで受け入れかねている。



 すべてを後で聞くことになるのだが……。行きつけの町医者が触診で肝臓にしこりを見つけてから、総合病院での検診・入院・検査・二度の手術・大本は直腸ガンであり、肺と肝臓にびっしりと転移・一年、二年ではなくもっとずっと以前からのもので回復不能なこと・終末医療病院への転院・そして二月十八日朝の死へと続く日数(ひかず)は、一か月となかった。その間私は何も知らず、一月二九日に訪ねたときの留守を、それまでも時にはあった夫婦ふたりでの外出としか思わなかった。脳天気な話だ。

 瀬川康男の死を、私は地方新聞の記者からの電話で初めて知った。「そんなはずはない。暮れの二九日に会っている。変わりなかった。先月も二九日に訪ねている。そんな気配はなかった」。新聞記者からの電話を信じられず、その後文字通り闇雲の右往左往があって、死は確認しているいまも了解不能な心の苛立ちのなかにいる。

 編集部が私に求めているのは、なんでもいいといってくださっているが、こうした無残な個人的あれこれではなく、瀬川康男作品へのそれなりの挽歌なのだろうと思う。しかし、まとまった彼の絵本の業績について、いま文章を書く気力を持たない。押しなべてほとんど全ての瀬川康男の絵本が、私は好きだ。その作品群から絵本の大きな力ばかりでなく、絵本とは何かという技法まで含めて、たくさんのことを学んだ。そして、私にとってとても珍しいことなのだが、個人的な暮らしの在りようや生き方にまでそれは及ぶ。

 そんな私は、自分の本棚の瀬川康男のコーナーの前に、まだ落ち着いて立てない。つい目を逸らしてしまう。この文章を書くために仕方なしにそこに立って、目をつむるようにしてアトランダムに一冊を抜き出す。例えばそれは『だれかがよんだ』(一九九二年六月・福音館書店)である。抜き出したら大急ぎで本棚の前を離れて、書斎に戻る。そして机の上の『だれかがよんだ』とやがて静かに向き合う。

 私のなかで、思いがことばになって次ぎ次ぎと溢れだす。

 ここに描かれる、登場するものたちの無垢で純粋な生命(いのち)の、在りのままな関わりが持つ存在感は、どうだ。人とか動物とか植物とか天とか地とか、人間が勝手に作って納得している境界を全く無雑作にとっ払って、生(き)のままのそれぞれの魂が伸びやかに交流し、物語を作る。そして、温かく静穏な終末へ集斂する。「在る」としかいいようのない生命たちの世界が、そこにある。古典的日本語のリズムを持つことばは、極端にそぎ落とされ、単語一つひとつが、おそろしいまでにその意味と力を最大限押し広げて語られる。「だれか が よんだ/ちいさな こえで おび おいで」。物語は、まるで原始のままの生命が、いとしいものを呼ぶ親愛の呪言のような声で始まる。呼ぶのはオオイヌノフグリの花であり、呼ばれる「おび」は犬だ。

 ことばと隣り合って並ぶオオイヌノフグリの花が、実にいい。低く三角形に盛り上がった地面のてっぺんに、すっくと立つこの花の毅然とした美しさに驚嘆する。花は文章からいって、あきらかに女性だ。日本の女性は、少なくも私の周囲にいる人びとは、だれでもいつでもこの花のようだ。

 もう二昔も三昔も前の話になる。勤めていた学校の芝生のなかの雑草を取っていた時のことを思い出す。広い芝生のなかにオオイヌノフグリを見つけた。若草色の芝生のなかの花の青は、小さいが目立つ。抜こうとして手が止まった。顔を芝生に押し付けるようにして花を見る。花の茎丈は一センチに満たない。それなのに鮮やかな五月の日射しに向かってすっくと立ち小さな四枚の花弁を思い切り四方に押し伸ばして毅然と咲いている。しばらく息を呑んだ。

 そんな経験が絵本のこの場面に重なる。

「そうだね康っさん。オオイヌノフグリってこういうふうに咲くんだよね。この絵すごくいい。金色の陽光をバックに生命そのものが輝いている。右ページの文と響き合って、擬人化の気配も十分だ」

 絵本を贈られた当時そういったと思うし、いまもそう思う。花と犬のそれぞれの魂がなんの障害もなく純粋に交流しているのだ。芸術だけが構築できるファンタジーの研ぎ澄まされた世界だ。

 そして、「おび おいで」と呼びかける声は、天上のウサギから地上の少女へと移り、穏やかで至福の終末に凝集される。裏表紙を前にして充実した無垢な作品世界に、心がおののく。彼の創り出した絵本のすべてに、そうした世界が香り立つ。

 私は瀬川康男の冥福などいま祈っていられないのだ。異界に去った彼との境界の壁はほとんどないらしい。生前よりずっと近くに彼はいて、私の日常のさまざまに語りかけてくる。私はそれに懸命に応えていかなければらない。(いながき・ゆういち)


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