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− 22 − たちどまってふりかえることをおぼえ |
松居直さんとの出合いは、少々めずらしい経緯があって、六十年たった今でも鮮やかに思いだせるユニークなものでした。 戦争が終って二、三年目の夏だったでしょうか。わたしが軍隊から戻ると、まずは生家の古い寺で毎日、わが家の本という本を片っぱしから読みふけっていた時代で、朝鮮戦争直前だったような気がします。 その日は確か稲垣足穂の『一千一秒物語』などを繰りかえし読みとばしていたのではなかったかと思うのですが、稲垣足穂とは不思議な作家で、読みつづける最中は、これほど鮮明なイメージに満ちた作品群であるのに、少し時間がたつと眠気に襲われるのが毎度のことで、その日も茣蓙をひっぱりだして本堂の縁側で昼寝をしていたら、急に耳もとで騒ぎが始って目を覚されたものです。 「うるさいやないか!」 少々腹をたててどなると、騒音の主は寺から五十米も離れない中川健蔵君の、二棟並んだ土蔵の屋根、そこで騒いでいた若者たちだったのです。 健蔵チャン(わが家では彼が死ぬまで幼児のまま、こう呼んでいましたが)昼は京都の同志社大学に通っては、帰宅すると毎晩のようにやってきて、わたしと将棋をさすのが日課でした。彼は角だ香車だとコマを操りながらも一方では鼻歌まじりに、ロマン・ローランの文学について挑戦してくるヘンな青年でしたが、家族にすべて死別し年若い妹と二人で暮らしていたのです。 ロマン・ローランというのが意表をつくものだったので、 「何がロマン・ローランや!」 とどなったら、 「同志社のロマン・ローラン研究会の親玉の松居直という奴が来とるのや。あんたの童話集『青い林檎』を読ましてやったら、えらい気にいったみたいやった」 すると数人いた若者の一人が立ちあがり品のよい会釈をします。 私はその直前、昭和十四年ころ十八歳のときに書いた童話と、すこし飛んで敗戦直後の半年間に同人誌へのせた生活童話風の村の生活をもとにした数編の短篇をまとめて一冊にしていました。西も東も一見して(戦時物)童話ばかり溢れていた中で、少年少女のあるかなしかの淡いこころのつながりを、永くこころに温めていた自分が何となく好感がもてたし、戦後半年間の作品については、軍隊に召集され、オキナワの特攻隊の弾薬の輸送、ヒロシマの原爆にわずか三時間ばかり遅れて帰港したため、わずかの好運によって助かった自分の傷口ともいうべき悲しみを秘しながら、さりげなく書かねばならなかった時間の重さ、それをわかってもらいたかったのです。 ところが発表当時の世間は民主主義という言葉とインターナショナルの歌ごえばかり、戦後派の児童文学の関係者からは、あからさまに非民主的な古風な童話集だとして一顧もされなかった落ちこんでいた時期だったから、松居さんの言葉にいかに息をふきかえされたことでしょう。 「なんでロマン・ローランなんや。こっちは童話や」 けれどそのあとの数日間は、そんな思いあがりも消え、食が進んだくらいでした。 そして、それから日がたって、同志社を卒業して「福音館書店」の編集者となった松居さんから長編童話の注文が舞いこんだのには、まったくビックリ仰天しました。まさかそんなことが起るとは、予想もしていなかったからです。 でも執筆にかかったものの、既にNHKや他の出版社や雑誌や新聞に仕事をはじめていましたが、他社のように簡単に進む筈はなかったのでした。 第一、ロマン・ローランと対比してくれた松居さんの仕事であること、そして意外にも明らかにキリスト教の出版社でありながら、社長が中川さんにはおシャカさまを書いてもらえと言ったと聞いて、その不可解な成りゆきに、霧が拡っていくような企業としてのねらいの不安さ。 わたしはジリジリとあせりながら、おろおろしている毎日でしたが、松居さんは何ども新幹線以前の在来線の国鉄で往復しながら、わたしを鼓舞してくれた、それを自分の責任だと考えてくれているようでした。 そのあたりから松居さんとの家族のようなつきあいが始ったわけですから、少しずつ立ちあげる彼の絵本についての考え方、生き方が、わたしに深い影を落すのは当然です。その時期、わたしが得たものは誰か物静かな詩人が歌ったような、次のような断片を思い出させてくれるものでありました。 たちどまって ふりかえることをおぼえた おとしたものを ゆびくって かぞえる くせがついた それから間もなく、わたしと松居さんとの間には、だんだん「絵本」と「絵本作家」の問題が激しく割りこんでくるのですが、それがわたしの後の生涯を当然きめてしまったことは、いうまでもないでしょう。 |