みんなちがって、みんないい

 「みんなちがって、みんないい」という言葉をよく目や耳にします。これは金子みすゞの有名な詩の一節ですが、どうも言葉だけが一人歩きしているような気がしてなりません。すなわち、「誰も違っていていいんだよ」というように、半ば盲目的に「違いを受け入れよう」とか、「違いを認め合おう」とかの意味で使われています。まさに、個性尊重の代名詞のように使われているのです。

 しかし、そもそも他人同士なら違いがあるのは当然です。受け入れるも受け入れないもありません。認めるも認めないもないのです。だいいち、「当然であること」を受け入れようとか、認め合おうとか主張すること自体、不気味で滑稽な話です。

 むしろ大切なのは、詩の中に出てくる「違い」の中身でしょう。絵本『わたしと小鳥とすずと』(金子みすゞ/詩、金の星社)には、「私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、地面(じべた)をはやくは走れない」——。「私がからだをゆすっても、きれいな音はでないけど、あの鳴るすずは私のように、たくさんなうたは知らないよ」——。だからこそ、「みんなちがって、みんないい」と書かれています。

 そう——、私と小鳥と鈴の各々には、出来る(得意な)ことと出来ない(不得意な)ことがあるのです。そして、私の得意なことが相手は不得意。私には不得意なことが相手は得意。すなわち、「お互い別々の短所はあっても、お互い真似のできない素晴らしい長所があるからこそ、みんな大切なんだね」が、その詩の意味するところではないでしょうか。

 それでは、鈴と小鳥と私のように別々の生き物ではなく、同じ人間でも何かしらどうにもならない辛さを背負っている人の場合だったらどうでしょう。絵本『どんなかんじかなあ』(中山千夏/文、和田誠/絵、自由国民社)には、そんな子どもたちが描かれています。

 例えば、目が不自由でも、色々な音を注意深く聞いている子ども——。耳が不自由でも、色々な物を注意深く見ている子ども——。手足や身体が動かなくても、色々なことを深く考えている子ども——。そして、両親がいなくても、気丈で思いやりのある子ども——。

 そういう子どもたちを前にして、「違っていていいんだよ」、「違いを受け入れよう」、「違いを認め合おう」などと言うのは、あまりにも無神経で失礼だと思います。むしろ、「皆とは違う辛さを背負っていても、こんなに素晴らしい物を持っている。だからこそ、あなたを心から大切に思う」と、私だったら言うでしょう。

 人は誰しも、素晴らしい物を持っているのです。それに気づいてくれて、分かってくれて、だからこそ大切に思うと言ってくれる者がいるからこそ、人は生きていけるのではないでしょうか。すなわち、人と人との繋がりは個性尊重ではなく、個性共感なのです。

 金子みすゞの詩集は、小さき者・弱き者・名もなき者の素晴らしい点に気づき、だからこそ大切に思うという共感の詩で満ち溢れています。それらはまさに、周囲から大切だと言ってもらえないまま、失意の中で命を絶った金子みすゞ本人を詠った詩のように思えてなりません。

 
「絵本フォーラム」53号・2007.07.10

鈴木一作氏のリレーエッセイ(絵本フォーラム27号より)一日半歩

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