「絵本フォーラム」第52号・2007.05.10
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小さなはずむことばが伝える小さな胸の大きな鼓動
『
しらない いぬが ついてきた』
多くの場合、何者かに好意を寄せられることは悪い気分ではない。多くの場合としたのは、気味の悪さや怖さのともなう身勝手な好意を寄せられることもあるからだ。
近年、“追っかけ”とよばれる人々がいる。話題の俳優やプロスポーツ選手らの行く先々を追っかけるのだが、この場合、追いかけられる側は ” 追っかけ ” の多少が人気度の証しともなるわけで、そうそう邪険にあつかえないだろう。
ところで、他者にこころを寄せる、そのあとにつづく……という“追う”とか“つく”という行為には一面、積極性や動きが明瞭に感じられて力強い。
マラソン走も終盤三〇キロあたり…、先頭をひた走る走者の息はあがり肩の上下運動がはげしい。そこに二位につく走者がひたひたと迫る。よくテレビで見るシーンだ。見慣れた視聴者は行方を想像する。うしろをときおりふりかえるトップ走者に追われるものの焦りや怖れおののくこころを読みとり、たしかな足取りで追う後者の力強さに逆転劇を予見する。
しかし、“追われる”“追う”関係はそう簡単には理解できない。
見知らぬ犬にピターッとつかれたらどうだろうか。ぼくは永く犬を飼う身だが、見知らぬ犬を容易に受け容れることはできない。そんな犬がどこまでもいつまでもついてくるとしたら、おだやかな気分ではいられない。人なつこい犬であっても、いつまでもまとわりつかれるのは困るし、物騒な犬ならなおさらだ。
…小さな街中を小さな坊やが歩いている。そこに見知らぬ大きな犬がやってきて坊やについている。坊やの歩きにしたがって、犬は坊やを追う。坊やはとてもとても不安そう…。
ついてくる ついてくる。しらない いぬが ついてくる。
やだ やだ どこの いぬだろう。
おいおい、ついてこないでよう。不安で、こわくて…、坊やはそんな思いだろうか。絵本『しらない いぬが ついてきた』はこうして語り始める。
坊やの一、二歩あとを、坊やより大きな犬が、ぴたりとついて追う。
だめ ! って いっても ついてくる。
にげても かくれても ついてくる。
もう、だめ、だめ。ついてこないでよう、と坊やの胸はドキドキうなり張りさけんばかりだ。
坊やの思いをよそにこの絵本の読み手や聞き手は、なんだか余裕をもって対峙する。作者の描くアイリッシュセッターは怖くないし、やさしい目つきに静かな動き。まるで庇護するように坊やにつき、そして、追う。だから、坊やと犬のほほえましいお散歩光景のように映る。第三者の観察は坊やの思いに無責任だが、あながち的外れでもない。
犬にしっかりついてこられて無我夢中で知らない空き地にきてしまった坊や。今度は帰り道が分らず迷子になった自分に気づいて不安にかられてしまう。ここからお話の展開はうまい具合に逆展開するのである。いま来た道をアイリッシュセッターが案内してくれるのだ。
ついていく ついていく。しらない いぬに ついていく。
とんねる ぬけて……
この みち とおって……
ここで、坊やはさっき来た道を思い出す。…いいお話である。かんたんなお話だ。
句読点をいれてもわずか一六六文字のすっきりかんたん物語である。
だけれど、ストーリーは起承転結をはっきりさせて明解明白。絵もゆるやかな川の流れのように描かれる。で、ほのぼのとしたあたたかさに包まれて、なんだか実にいい感じなのである。
絵が語り、文が描く。ひとりきりで創作した作者の思いがふうわりとした詩情を謳いあげる秀作だと、ぼくは思う。 |