たましいをゆさぶる子どもの本の世界

「絵本フォーラム」第47号・2006.07.10
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関西方言で紡ぎだした、ちょいといい気分の狸のおはなし

『ごろはちだいみょうじん』

写真  狸と狐。狡猾な狸親爺に男たちを手玉に取る女狐、いずれにしても人をだましたり、化けて出たりという狐と狸は、洋の東西を問わず寓話や昔話によく登場する。ただ、ヨーロッパのお話に狐が圧倒的に多いのに較べて日本に伝わるお話では狸が健闘する。これは、狸が東アジア特産の獣だからであろうか。狂言・浄瑠璃にも「狸の腹鼓(はらづつみ)」に「狐火(きつねび)」などがみられるから、両者は結構主役級なのである。

 さて、あなたは、狸派、それとも狐派? ぼくの場合、うどんを食するなら決まって狐うどんとなるのだが、ぼくが勝手にイメージする気取りやおすましの狐より太鼓腹の愛嬌ある狸の方に肩を入れる。
 で、ちょいといい感じの、狸に肩入れした創作昔話絵本に出会う。

 背景は近代日本の草創期と見てよいだろうか。文明開化の象徴である鉄道が、地方の田舎町にも敷設され始めたころのはなしだ。
 舞台は関西で、のどかでゆったりとした時間の流れる弁天さまの森。そんな森に一瞬ひとすじの風を吹かすのが主人公の狸ごろはちで、名うてのいたずらものである。村人からは「あんまり わるさ せんでおくなはれや あんじょう たのんまっさ」といわれて、「ごろはちだいみょうじん さまさま」と奉られていた。
 ごろはちは村人の怨嗟の的ではない。村人は、「かんにんしてや」「あんじょう たのんまっさ」と平伏しながら、ごろはちのいたずらやわるさをどこかで楽しんでいる。村人の日常にふんわりとした刺激をごろはちは与え、村人は「しゃあない ごろはちだいみょうじんさまや」といいながら楽しむ。ごろはちも、いたずらのお返しにあけびややまぶどうを届けたりするのだからなかなかにくく振舞うのである。
 はじめて汽車が村にやってくる日、そのかぶとむしのおばけみたいな姿に「ごろはちに だまされとるのと ちがうやろか」と村人は笑い出し線路へ飛び出して行く。もう、だれも止めようがない。そこで、ごろはちは、みるみるやってくる汽車に立ちはだかり身代わりとなって村人を救う。はらはら・しんみり、滑稽譚であるはずなのに胸は熱くなり涙まで誘う。狸にあぶらげ、神にお経を読む和尚さんの登場など話の部品は逸品ぞろいで読者をぐいぐい物語世界へ誘うのは創り手の妙手が冴えているというのだろうか。

 この作品は、初めて関西弁で書かれた絵本だと作者自身が語っている。南九州で育ったぼくがはじめて関西弁に触れたのは何時だったか、ひどく乱暴で無礼な方言だと感じた記憶が強い。
 『ごろはちだいみょうじん』の関西弁の親しみやすくや歯切れよさも関西人自慢の言葉にちがいない。のどかでとぼけた作品世界の骨格はテキストの妙味や技とともに、梶山俊の描く達者な大和絵技法の筆づかいと色づかいが骨格となっていることを見逃せない。

 亡き母方の親戚に南薩・琉球方言の碩学とされる言語学者の故・上村孝二鹿児島大学名誉教授がいる。同じ日本語であるのに地域によって音韻や語彙、文法に至るまで異なった発達をする方言は気候・風土・風習に左右することが多いのだろうか。彼の存在を身近にしながら、少年期に関心ひとつ持たなかった方言に日本語の豊かさや日本人であることの誇りにも似た想いを覚えたりするようになったのは還暦を過ぎたころからだろうか。故郷の旧い友人たちとの邂逅が格別なアイデンティティを共有しているのを見逃さなくなったように想う。

 さて、この作品を、何度も声に出して読むとどうなるか。関西方言語り『ごろはちだいみょうじん』が伝えるものは、絵本のストーリーだけに留まらない。
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