たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第103号・2015.11.10
●●92

因果応報か。無常か。人間社会の
混沌や不条理を揶揄する不思議な笑劇

『駝鳥』(六耀社)

 国会を包囲する若者や母親たち、多くの学者・法曹・文化人らも集結して法案反対の声駝鳥をあげた新安全保障法制。これらの声を政権は完全に無視する。
国会では怒号うずまき、乱闘くりだすなかで法案が成立する。無茶無理筋の強行採決だ。

おまけに、議事録作成者が法案成立の成否すら聴取できない荒れ舞台を、姑息にも加筆して成立させるきわもの議決。

日本が、立憲主義も民主主義も失った瞬間だったといえないだろうか。

 
 ときの政権は、これを「平和法制」という。まるで、ブラックユーモアである。


 ブラックユーモア文学の旗頭といえば、筒井康隆だろうか。ショート・ショートの名手として、切っ先するどい風刺の達人として、ありきたりの倫理や世のタブーに挑んで文学を創造する。

読者を、ぞっとするような話で固まらせ、心地悪さを感じさせながら不気味な笑いの世界に魅きこんでしまう。

人間の、全的性といったものを捉えて描く作品の数々。通底するのは、人間所業への懐疑だろうか。愛情か。


 そんな筒井作品の短編小説のひとつである「駝鳥」が、福井江太郎の日本画を得て絵本となる。

中学国語教科書にも収載される「駝鳥」は、砂漠に迷いこんだ旅人と一羽のダチョウのあいだで両社の心情が交錯する、不気味で怖〜い、物語である。

 

 旅人に慣らされたのか、すぐれて従順なダチョウ。それでも友だち感を持っていた旅人とダチョウは、とだえることのない砂漠をひたすら歩く。

空腹をおぼえると、いくらかなりと用意してきた食料をダチョウとわけあい、夜は、ともによりそい砂上で寝た。

 

 こんな関係は、食料が残り少なくなると、がらりと変わる。食料をダチョウに分け与えることをやめる旅人。

相手はダチョウだ。自分の命にはかえられん、というおかしな理屈をつけて。食料をもらえなくても旅人についていくダチョウ。

無表情な眼で眺めるだけだ…。そこに、福井の日本画が凄みを利かせる。こわいほどだ。


 
 空腹に耐えられなかったか、たまたまか。ある夜、ダチョウが旅人の懐中時計を飲み込む。

旅人は、これをいいことに屁理屈を飛躍させる。「腹がへったとはいえ、けしからん。かわりに、お前の腿肉をもらう」と…。かくして、旅人は腹をすかせると、ダチョウのからだのあちこちをむしりとる。非情か。無常というのか。

 

 不気味をさそうが、骸骨となったダチョウは、変わらず、旅人のあとを追う。

 やっとのことで町が見える。旅人は、金目とみた時計を最後にうばおうとダチョウの肋骨に腕をつっこむ。

げんざいこのときだ。はじめてダチョウが口を利くのである。「お前は、その時計をとるのか」と。

こわい。ぞぉーとする口調ではないか。時計のかわりに肉をたべたのではなかったのか、といいたかったのだろう。

 

 しかし、旅人の言い分は無茶無理筋の論理だけ、「背に腹は替えられない」だった。
で、時計を抜き取ろうとする旅人にダチョウがおそいかかり、逃げ走る旅人を骨だけのからだにしてしまう、という決末となる。

 
 作者・筒井は、自らの作品を「玄笑」といい、多くを語らない。

 ダチョウの従順さ、旅人の傲慢に変容するさまは、どこから来るのか。科学技術の進展で思うままになんでもできると増長してきた人間社会と自然界との関わりに相似する、旅人とダチョウの関係。

旅人はダチョウの逆鱗にふれ、自然を破壊してきた人間社会は、今、温暖化をはじめとする自然の逆襲に会う。

 果たして、この作品は、ナンセンス・ストーリーか。因果応報の物語だろうか。人間の善悪・美醜・我執や我慾などのあさましさを揶揄しているのだろうか。

 劣化社会と批判される現在の人間模様と符合して考えると、どきっ、とさせられる絵本作品だ。玄笑文学のすごみを味わってほしい。

『駝鳥』筒井康隆/作、福井江太郎/絵、六耀社

 (おび・ただす)

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