たましいをゆさぶる子どもの本の世界

 

「絵本フォーラム」第100号・2015.05.10
●●89

危機に瀕したことばを活かした大統領

『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』(汐文社)

世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ ことばが危機に瀕している。例えば、平和ということば。平和のために戦争をできる体制をつくるとか、基地の配置は安全を保障するために絶対に必要とかいうやつ。「世界をひとつに」などというのもおかしい。経済の空洞化の背景に国力の格差があり、それを前提に安い労働力が貪欲に利用される。原発とか、沖縄辺野古とか、なにやらわけのわからぬことばを弄して住民の意思を無視、事をどんどん進める一群がいる。現在ほどことばが危ないと思えることがあっただろうか。  

 かくして、世界はあちらこちらで戦闘状態。力くらべと欲のつっぱりあいで解決のめどすら立たない。こんな状況をどう考えたらよいのだろうか。

  「人口13億人のインドの人々が人口8000万人のドイツと同じ割合で車を持ったらどうなるのでしょうか」と問いかけて国家の代表者たちの耳目をうばった小さな国の大統領がいる。「この地球にわたしたちが息をするための酸素がどれだけ残るのでしょうか」と、彼は語り、「世界中の80億人は、これからもこれまでの先進国家の人々のようにぜいたくにモノを売り買いしたり、ムダづかいできるのでしょうか。そんなモノを作りつづける原料はどこにあるのでしょうか」とつづけた。(『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』)

 演説の舞台は2012年6月、ブラジル・リオデジャネイロで開催された国連「持続可能な開発会議」。テーマは自然と調和する人類の未来や貧困問題だ。テーマを聴いただけで各国代表の演説が予測できそうだ。多くは現状を肯定し、ある部分憂えていくらかなりとベターと思える小さな提言で終始する。そんな会議が終わりに近づいたころに登壇したのがウルグアイのホセ・ムヒカ大統領だった。

  「モノを売り買いする場所は世界に広がり、できるだけ安く作って、できるだけ高く売るために、どの国の人々を利用しようかとしていませんか」と、現実世界の歪んだ実際を説いていくスピーチに、いささか場違いだろうと斜に構えていた各国代表たちは、しだいに身を乗り出すように彼の演説に引き込まれてゆく。

 ムヒカ大統領とはいかなる人物か。本書によれば、給与の大半を貧しい人々のために寄付し、公邸には住まず、奥さんと農場で暮らす79歳(現在80歳、今年3月に大統領を退任)。

 軍事政権期、一徹な活動家で長期収監されたこともある人物で民主化を迎えて活躍の舞台を得たという彼は、ネクタイを締めたこともないという質素で堅実な生活スタイルをとおす。で、ウルグアイの人々は、彼を「ぺぺ」と呼び、親しみを込める。「世界一貧しい大統領」も誇張ではないはずだ。

 ハイパー・インフレにあり、人々の暮らしのきびしさが伝えられるウルグアイにあって大統領は経済成長をうたわない。眼前の危機は地球環境の危機ではないともいう。

  「わたしたちが挑戦しなくてはならない壁は、わたしたちの生き方の危機です。人間は、自分たちが生きるためにつくった仕組みをうまく使いこなせず、むしろその仕組みによって危機におちいった」とつないだスピーチを聞いた各国代表者たちは何を思っただろうか。

 ぼくらは何のために生まれたのか。あらゆる発展をのぞみ、あらゆるモノを手に入れ、さらにもっととモノを欲しがるために生まれたのではないだろう。「この惑星にわたしたちは幸せになろうと生まれてきたのです」と結び諭す大統領の演説が聴衆の胸を鋭く突いたのはまちがいない。

  危機に瀕すことばを活かして発する人物の存在を、ぼくらは知っておきたい。

 (おび・ただす)

 

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